おかえり、アリス
因果の遅延と比較して、因果の
術式は単純だけど魔力がかかる、と表現した方が正しいだろうか。
やること自体は簡単なのだ。
因果の糸を巻き取り、十秒後に起きる結果を一秒後に前倒しするだけ。そもそも『数限りない選択肢のある未来から任意のものを選ぶ』というのは、結果を先送りにしたりどこか遠くに消し飛ばしたりするよりも遥かにイメージしやすい。
ただ一方で、この『前倒し』にはとんでもなく魔力を使う。それこそ先送りの比ではないほどに。
理論はよくわからない。ただ感覚として、因果遅延は『選ばない』のに対し、因果
そんなわけで。
術式の構築は単純で、詠唱も必要なかった。
逆に、魔力と気合いだけはいつもよりめちゃくちゃ込めた。
「いきます……『
剣を振り、そこから伸びる因果の鎖を
鎖には先端に
僕は魚釣りが下手だけど、
「……っ!」
と。
無駄なことを考える余裕は、すぐになくなった。
絵的には静かなものだ。鎖がじゃらっと放物線を描き、アリスさんの元へと向かっていき、それが途中で止まっている。
僕の望む未来は、アリスさんへ鎖が到達すること。彼女を絡め取ること。
対して結界のもたらす未来は、その先送り。鎖の動きの遅延。
「く……っ!」
因果を早める僕と、
‘’————————”
因果を先延ばしにする結界。
釣りというよりも追いかけっこだ。
因果と因果の、せめぎ合い。
自分の魔力がガンガン減っていくのがわかる。これはほとんど初めての経験だった。今までどんな魔術を使っても『魔力を消費した』という感覚をほとんど味わったことがない。僕の魔力量はそれほどまでに多く、なのに今は体感できるほどに、プールの栓が抜けたように鎖に吸われていく。
そもそも魔力というのは、有機物か無機物かを問わず、この世に存在するあまねく物質から湧き出るものだ。生き物をはじめとして草木、岩、水、空気、そして星そのもの——あらゆるすべての物質は魔力を持ち、程度の差こそあれ常に発生させ続けている。
なのに、それが。
マイナスに転じるほど——転じなければならないほどに、結界の因果遅延は強い。
「さす、が、始祖の編んだ魔術……!」
思わず顔が歪む。食いしばった歯が軋む。やってくる脱力感を気力で繋ぎ止めながら、必死に因果を手繰る。
拮抗はできている。ギリギリのところでだけど、因果の遅延と加速は差し引きゼロになっていて、つまり鎖はゆっくりと、アリスさんへ到達しつつあった。
だけど——近付くほどに遠い!
ウサギとカメのパラドックスだ。結界の中心点ほど因果遅延は強くなっていく。だから最初の五メートルよりも次の二メートル半の方が、更にその次の半分の方が、辿り着くための魔力も辿り着くまでの時間もどんどん多くなっていく——。
どうする。ここで思い切って、全魔力を注ぎ込んでみるか。でも、もしそれで辿り着けなかったら。一ミリでも足りなかったら、もう終わりだ。
しかも行きだけじゃない、帰りもあるんだ。鎖を絡めてもアリスさんを引き戻すまで綱引きは終わらない。そんな、先の見えない中で賭けに出ることなんて——いや。
手段は、ある。
僕の魔力を増幅させる手段が、あった。
両手で握っていたリディルを片手持ちに変える。
離した左手で、襟元を手繰る。
「
首にかけていたペンダント。
その宝石を、握りしめた。
シデラでエジェティアの双子を怯えさせてしまってから、うっかり発動させてしまうことがないよう無意識で制限をかけていた。だけど、いま使わずしていつ使う。
僕の魔力を増幅させる、つまり魔力湧出量を跳ね上げさせる力を持った宝石——『妖精の雫』——
彼女たちの想いが、時の流れなんかに、負けるわけがない。
膨れあがった魔力を込める。
それまでを数倍するほどの速度と規模で術式を稼働し、因果を加速させる。
集中しすぎているからか、飽和しきった魔力のせいか、目がちかちかして視界がぼやける中——僕は手応えを感じて、叫んだ。
「あなたを待ってる人がいる! あなたに会いたがってる人がいるんだ……だから……戻ってこい!!!」
力の限り魔力の限、剣を、鎖を引っ張る。
そして——。
※※※
「わん! ぐるるるる……がうっ!」
駆け寄ろうとしていた長老会の面々を、ショコラが
ありがとう。さっきまで丸まってあくびしてたのに、お前は本当に空気が読めるやつだよ。
確かに長老会の面々、特にミヤコさんやモアタさんは始祖のエルフを大切に思っている。なにせイデオロギーの根幹で、ミヤコさんに至っては百年にわたって焦がれていた相手で、おまけに
でも、今は待ってほしい。
だってミヤコさんが百年なら、こっちは二千年なんだから。
「魔術の余波がないか様子を見てます。下手をしたら乱雑になった因果に取り込まれますよ。まだ近付かないで!」
僕も叫んだ。まあ、嘘なんだけどさ。
大丈夫。魔術の余波なんてなくて、健康を害していないことも『鑑定』で把握している。ただ、二千年も止めていた時間が圧縮されて一気に五感を襲ったせいか、意識を失ってはいた。
しゃがみ込んだ僕の腕の中で、仰向けに力なく身体を横たえて。
それでも呼吸をしている、日本人の顔だちをした、黒髪のエルフ。
彼女の頬に当てられた、細い手が優しかった。
彼女の顔を覗き込む、大きな目が潤んでいた。
彼女の身体に縋り付く、幼い身体が強張っていた。
「ああ……ああ」
その声に、母さんが鼻をすんとさせ、カレンも震えながら顔を背ける。
僕は虚脱感と達成感の中、涙がこぼれないように上を向いた。
「ありがとう、スイくん。……本当にありがとう」
妻の背中に手を添えながら
「おかえり、アリス」
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