一緒に野山を駆け回る
木々を掻い潜りながら駆ける。
枝を掴んでそのままの勢いで
川の水面に浮かぶ石を足がかりに、飛び跳ねながら渡る。
「まだ余裕がありそうだな。もっと速くいくぞ」
「わうっ!」
ショコラと並んで森を走りながら、僕は笑っていた。
年末、変異種の調査へ赴いた時にも似たようなことをした。深奥部から中層部へ向かうのに、最短距離で突貫したのだ。
だけどあの時と今とでは、やっぱり違う。
目的地へ急ぐために全速力を出すのと、楽しむために森を駆けるのとでは。
「嬉しいなあ」
「わふっ?」
「お前と全力で走れるのは、嬉しいなって。そう言ったんだよ」
忍者もかくやって感じで疾走しながら、感慨は胸に深い。
ショコラは子供の頃からずっと、僕に合わせてくれていた。
散歩に行く時も、自然公園でフリスビーを投げる時も。
日本に転移した時にはまだ子犬だったこいつの身体は、僕が小学校低学年になる頃にはもう、今とそんなに変わらない体格になっていた。
きっと、本当はもっと大暴れしたかっただろう。有り余る体力に任せてはしゃぎ回りたかっただろう。でも僕は当時、まだ全然子供のままで、力だって弱くて——そんな僕を困らせないよう、こいつはずっと手加減してくれていたんだと思う。
「まあ、今だって本気の本気ってわけでもないんだろうけどさ」
「わん! わおんっ」
時折、こちらを狙う魔物の気配がする。その度に僕かショコラが魔力を尖らせそちらを威嚇し、追い払う。狩りをしに来ているわけではないから無闇に殺生する気はない。変異種と出会せばまた別だけど、今のところ魔力
「よし、崖を登るぞ。着いてこいよ!」
「わうっ」
目的地にしていた、切り立った岩場——崖の
「よっ!」
ぴょんぴょんとカモシカみたいに、崖をジャンプで登っていく。
跳躍し、出っ張った岩に足をかけ、崩れないように因果選択の魔術を稼働させてからそこを足場に次の岩へと更に跳躍。その繰り返しで頂上を目指す。
ぐるっと回り込んで反対側から行けば、なだらかな坂道を登っていける感じになるとは思うんだけど、今回はそういうのじゃなくて。傍目には人間離れした挙動だろうと、僕はこうしたかった——はしゃぎたかったのだ。
とはいえスリルを求めたわけでもない。安全は充分に確保している。魔術で因果を操作し足場を固め、万が一に足を滑らせても結界が身を守るのだから。たぶんこれは性格的なものなのだろう。自分の身を危険に晒すような行為が好きじゃないんだ。あるいは、だからこそこういう、防御に特化した魔術が得意になったのかもしれない。
僕の後から同じルートで跳躍してくるショコラの気配も確認しつつ、やがて終着点が見えてくる。あとジャンプ三回、二回、一回——、
「ゴール!」
「わうっ!」
辿り着いた頂上は、まさに『出っ張った崖』って感じ。
なんというか、推理ドラマで殺人犯が追い詰められてそうな……。
「逆側は森に入っていくことになるのか。こっちから登る方が面倒だったかもなあ」
「わふう」
鬱蒼としているし、降りていく内に方向感覚を失いそう。
「まあ、帰りもこっち飛び降りるかな」
崖から景色を眺めながら、腰を下ろす。
ショコラも、隣にちょこんとお座りをする。
「ジ・リズの背中から見るのとは、また違った感じだよね」
「くぅーん」
崖の上だから確かに他よりも高いが、それも狭い範囲での話だ。
森は決して平地ではない。山もあれば谷もあり、いつの間にか標高が低くなったり高くなったりもしている。だからここから見渡せるのは周辺の、せいぜい数キロくらい。見下ろせるのも周辺の、せいぜい数百メートルくらい。
「それでもやっぱり、気分がいいな」
「わうっ!」
ちっぽけな自分が、少し大きくなれたような。
それでいて、自分がすごくちっぽけなことを思い知らされるような。
ふたつの相反した感情が混じり合い、自分は確かにここにいるんだという不思議な気持ちになる。こんな寂しい場所にいる、けれど自分の足でここに来た。こんな高いところから見渡している、けれど森を鳥瞰すれば自分もまたその中の小さな点——。
「こういう冒険、ほとんどしなかったもんなあ。
——と。
「……あ」
そんなことを——考えていると。
不意に、思い出した。というより、思い至った。
なぜ僕が、そうなったのかを。
「小学校、低学年。二年生だったっけ」
父さんに、自転車を買ってもらった。
公園で練習して、乗れるようになった。
ペダルを漕げば走るよりも速くすいすい進み、どこにだって、どこまででも行けるような気にさせてくれた。だから僕は、そうした。冒険した。
調子に乗って、ぐんぐんと、心の赴くままに住宅街を自転車でひた走り、やがて気付く。周囲の景色が見知らぬものになっていることに。ここがどこなのか見当もつかないことに。
家に帰る道が——わからなくなったことに。
道に迷って、途方に暮れて、不安になって、悲しくて、絶望して。
どこかの小さな公園だったっけ。そこのベンチに腰掛けてぐずぐず泣いたんだ。でも、助けてくれる人もいない。遊んでいる子供もいなくて、通りがかる大人もいなくて、だからたったひとり、まるで世界から切り離されてしまったような気持ちになって。
そんな中、来てくれたのはショコラだった。
僕がいなくなったことに気付き、仕事から帰ってきた父さんに吠えて報せてくれた。それから僕の匂いを辿って、探して、見事に公園まで、父さんとともに。
「お前に抱きついて、わあわあ泣いたっけなあ」
「わふっ?」
小学生の子供だったから、実はたいした距離じゃなかった。同じ団地の中、せいぜい学区が隣だったって程度。
それでもあの時の寂しさと心細さ、恐ろしさは、根深いトラウマになった。父さんの心配した顔と、頬をしきりに舐めてくるショコラの仕草に、僕はいなくなっちゃいけないんだって思った。
そして、以来。見知らぬ場所にずんずん進んでいくとか、遠くにある景色のところまで行ってみるとか、そういった『冒険』を、僕は無意識にしなくなった——することに、奇妙な罪悪感を覚えるようになったんだ。
「それが、遠くまで来たもんだ。トラウマも払拭されたのかな」
「くぅーん?」
「お前に探してもらうだけの僕じゃなくなったってことだよ」
ショコラを抱き寄せる。あの日みたいに、その毛並みを撫でながら、体温に安心しながら。
「わんっ!」
ショコラもまた、あの日みたいに——僕の頬を、べろべろと舐めた。
だけどあの日とは違って、泣いている僕を安心させるためじゃない。
「せっかくだし、崖の上で遠吠えとかするか?」
「わふっ、ふすっ」
「はは、柄じゃないか。まあ、無闇にこの辺の獣を怖がらせても仕方ないしな」
「わう」
懐から取り出して確認すると、母さんからだった。
『遅くなる前に帰りなさい』
「『わかった、ありがとう』……っと」
返信をして立ち上がる。
伸びをしながら景色を最後にもう一度。
「帰ろうか。また来ような」
「わおんっ!」
相棒の返事に気をよくしながら、僕は勢いをつけ、崖を飛び降りる。
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