森の静けさに誘われて
散歩に出かけた勢いで
どうもショコラの中で『散歩』は別腹らしい。
そのことに気付いたのは、こっちの世界に戻ってきてしばらく経ってからだった。
日本で大型犬を飼う人たちのほとんどにとって、運動——散歩は頭を悩ませる問題だろう。シベリアンハスキーなどは運動量が少ないとストレスが溜まるし、健康も損ねてしまう。なので僕も日本にいた頃は、ショコラがそうならないよう常に留意してきた。朝夕、最低でも各一時間、できれば一時間半は散歩の時間を取り、休日はドッグランできる自然公園に行って走らせたりなどしたものだ。
時間を確保するのはなかなか大変だったけど、それでも嫌だと思ったことはない。父さんも休日には一緒に、もしくは僕を置いてふたりきりで行ってくれていた。僕のいない散歩ではきっと、こっちの世界の話なんかをショコラにしていたんじゃないかな。
で、まあそんな感覚で——僕にとっては飼い犬の運動不足を解消するためのものだった一方、ショコラの中で散歩は、むしろ趣味だったようだ。
転移して以降、元気にその辺を走り回るし狩りにも行くしで、こりゃ運動不足を気にする必要はないなと、しばらく散歩をやめていたんだ。でも、まるで不満を表明するように、ショコラは時々リードを咥えて僕のところへやってくる。「散歩に連れて行け」と、尻尾を振りながらじっと見つめてくる。
母さんと狩りをした日でも、牧場でミントと散々走り回った日でも、関係なく。
そうなると、応えないわけにはいかない。
なので今の僕は運動不足解消とかそういうの抜きで、たまにショコラと散歩をする。ペースは月に三、四回になったけど、リードを繋げ、家の周辺をてくてくと気ままに。
カレンや母さんやミントと一緒なこともありつつ、大概はふたりきりで——それはいつの間にか僕にとっても『別腹』になっていた。
※※※
「すっかり景色も冬めいてるなあ」
「わうっ!」
そして、今日も。
畑仕事も大工作業もなく、狩りも休みということで、昼間から。
僕はショコラのリードを手に、森の中を歩いていた。
「日陰なんかは霜が立ってる」
「わふっ」
「お、行きたいのか? 踏み荒らしちゃうか?」
「わう!」
霜を踏むと、じゃくじゃくとした独特の感触が足裏に伝わってきて心地いい。ショコラは裸足だから余計に楽しいのかもしれない。くんくん匂いを嗅ぎながら、霜の立った土に足を遊ばせる。
「わう!」
「いい感じの棒か。今回のは長いな……」
その先に落ちていた棒きれを咥えてご満悦なショコラ。というかこれ、棒じゃなくてもはや枝じゃない? 長すぎて両端が地面についてるけど……。
「どっかに引っかからないか?」
「わふ、ふすっ」
「まあ引っかかったらその時か」
やじろべえみたいなスタイルで森を練り歩くショコラに苦笑しながら、周囲を見渡す。
大半の木々に葉はなく、いつもより視界が広い。薮や茂みも枯れてしまっていて、吹いてくる風は冷たい——木枯らしとはよく言ったものだ。
「いや、木枯らしって初冬に吹くやつだっけか」
「ばふっ」
「お前、咥えっぱなしで息しにくくないの?」
散歩ルートはいつもの——家の周りを大きくぐるっとというものだが、さすがに冬となると見える景色が違う。今までは葉に遮られていた遠くの風景が手に取るようだった。
目立つのは東側にある、見上げるほどに高い、切り立った岩場。
崖みたいになっていて、あそこに登ったら眺めが良さそうだ。
「あんなところ、あったのか。ここに住み始めて一年近くになるし、地形もたいがい把握してると思ってたんだけどなあ」
「わふっ?」
母さんやカレンより頻度は低いけど僕だって狩りには行くし、この前などは観測装置を設置するために森の中を奔走した。だが『
「くぅーん」
ぼんやりと岩場を眺めていると、足元でショコラが鳴いてくる。
「ああ、ごめんな、立ち止まっちゃって」
「くぅーん……」
「……どうした?」
いつの間にか、いい感じの棒を捨てている。
それでいてこっちを見上げ、
「もしかして、行きたいのか? あそこ」
「わうっ!」
「そうだな、また今度……」
「わう、わうわう!」
「……ああ、そっか」
——ショコラの反応を誤解していたことに、気付いた。
「行きたいのは、お前じゃない。お前は……僕に尋ねてくれただけなんだ」
あそこに行きたいよ、じゃなくて。
あそこに行きたいの? と。
「行きたかったのは、僕か」
そして、行きたいのなら行こうよ——と。
だからこいつは、いい感じの棒を捨てたんだ。
自分のことよりも僕のことを想ってくれたから。僕がわくわくしたのを、感じたから。
「お前は気付いたんだな。……僕が知らず、自分の気持ちを我慢しちゃってたことに。それを、お前のせいにしちゃって。ごめんな」
「わうっ!」
ショコラの頭を撫でながら思う。
考えてみれば、異世界に戻ってきてから……いや、日本にいた頃も。
僕はこういう冒険を、ほとんどしたことがなかった。
心の赴くまま、遠くの景色を目指して、そこへ行こうとする。
魅せられた風景の場所へ、実際に行ってみる——。
ショコラの背中を掻きつつひとりごちる。
「時間はまだたっぷりあるなあ」
「わう!」
「
「わう!」
「危険なこともないか。僕と、お前なら」
「わうっ!」
ひとりごとなのに返事をしてくれる相棒。
柔らかな毛並みの奥になる、力強くしなやかな体温。
「よし、行ってみるか」
僕はショコラの首輪からリードを外し、巻き取って腰に結える。
懐から
「なあショコラ。あの崖の上でお前が遠吠えしたら、かっこいいだろうな」
「わおんっ!」
なんだよ。ほんとは、お前も行きたかったんじゃないか?
そんなことを思いながら、僕らは走り出す。
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