りんごとはちみつで夜は更け
三日をかけ、スパイスの配合を微調整した。
そして試作をし、試食をした。
正直、最も気を遣ったのは匂いだ。カレーのいい香りはインフルエンサーの投稿並の拡散力でリビングじゅうに広がり、それだけで盛大なネタバレとなる。なのでみんなが寝ている夜中とか、昼間はみんなが外に出ているうちに手早くとか——すべては僕とカレンのふたりで秘密裏に行う必要があった。
そして努力の甲斐あって、最終日。
おばあさまがシデラへ戻る前日、最後の夕ご飯。
僕らはついに、完成へとこぎつけたのだった。
※※※
「すごい、いいにおい! なに? これ、なに?」
「
「なんだかすごく食欲をそそる香りね」
ミントが、おばあさまが、母さんが、リビングに漂うカレーの匂いをそう評する。
「お前たちには悪いな。いつものやつで我慢してくれ」
「わうっ!」
「きゅるっ」
今夜は掃き出し窓を開けてポチも呼び、家族みんなで。
香辛料をたくさん使っているのでポチはもちろんショコラにも、食べさるわけにはいかないのが残念だ。ただ、ふたりとも匂い自体はそこまで気にならないようで、ちゃんとドッグフードやサラダに目を輝かせている。
肉はチキン——トゥリヘンドのもも肉がごろごろ入っている。
野菜はニンジン、タマネギ、丸芋。オーソドックスなものにした。
まだみんなはカレーそのものを食べ慣れていないというのを考慮し、できるだけ辛味も抑えてある。
その秘訣、隠し味はりんごとはちみつだ。
すりおろしたりんごとはちみつを混ぜ、甘口に仕立てることにした。ミントにも食べやすいように——それからもうひとつ、僕にとって大切な理由もある。
「おばあさまが明日、シデラに戻っちゃうから。だから、なにか強く思い出に残るようなメニューをと思って。カレーっていう、日本の料理なんだ」
いやまあ正確にはインド発祥なんだけども。
でも、こんなふうに甘口に仕立てて、ジャポニカ米のご飯にかけた『カレーライス』はもう、日本料理と呼んでいいんじゃないかなと思う。
「香辛料のたっぷり入ったシチューをご飯にかけてある、のですか?」
「はい。他にもいろんな食べ方があるんだけど、今回はみんな初めてだし、日本の家庭でいちばん馴染み深い食べ方にしたんだ」
「おばあさま、私もいっぱい手伝った」
「まあ、偉いですねカレン」
「うー、おいしそ……。すい、はやくいただきます、しよ!」
おばあさまが、カレンが、ミントがわいわいと騒ぐ中、母さんは無言でじっとお皿を見詰めていた。そして、ミントの要望ですぐに食事が始まる。
「いただきます」
ご飯とルーを一緒にスプーンですくい、口の中へ。
僕は、味わいながら目を閉じた。
「……うん」
口の中へ広がっていく、この香り、この味。
材料の違いはあるし、市販のルーは当然使われてないし、完全に同じにはならないけど、それでも近い——懐かしいと感じるほどには。
「初めて食べる味です。辛みはあるのに、なんて優しい。素晴らしいですね」
おばあさまが目を見開き、顔をうっとりとさせる。
「むーっ……んんんん!」
口いっぱいに頬張って、喜びで足をじたばたさせるミント。
「味見したのよりもずっと美味しい。お手伝いしたから?」
カレンはにまにまと得意げに、ぱくぱくと匙を進める。
「……スイくん」
最後に、母さんは。
「とても美味しいわ。これ……もっといろんな食べ方のあるお料理なんじゃない?」
「うん。ご飯じゃなくて薄焼きのパンと合わせたり、あとはスパイスの配合を変えたり。一応、もっと辛くしたりもできたんだけど」
「これはわざと辛さを抑えたの?」
「そうだね。隠し味にりんごとはちみつを入れてるから、一般的なカレーよりもだいぶ甘口だと思う」
僕がそう答えると、返ってきたのは、笑みだった。
懐かしそうな、それでいて悪戯っぽい、そんなふうな。
そして、言う。
口元を綻ばせながら、とても愛おしげに——。
「お父さんが、好きだったんでしょ?」
「え……なんで、それを」
父さん、こっちの世界でカレーの話をしたことがあったんだろうか?
だけどそんな僕の予想を見透かすように、母さんは首を振る。
首を振って、じっとカレーを見——顔を上げて。
「わかるわ、夫婦だもの。あの人の好きそうな味くらい。それに、あなたの母親だもの。わかるわ……あなたが、なにを思ってこれを作ったのかくらい」
「……かあさん」
「ミントのためでもあるのよね? りんごとはちみつで、すごく優しい味になっているわ」
僕が目指したのは、バーモントカレーだった。
それも甘口の、りんごとはちみつが入ってるやつ。
そうだよ、母さん。
父さんが、好きだったんだ。
子供舌だねって、僕はいつも笑ってた。それでも父さんは「これが一番いいなあ」って。聞いたことはないけどひょっとしたら、お婆さんの——父さんが子供の頃の、家庭の味だったのかもしれない。
母さんがカレーを口に運び味わいながら、穏やかに息を吐く。
「美味しいわ。これまで以上に、家族の団欒って感じの味がする。みんなの前に同じお皿が並んでいるからかしら? リビングがこの香りでいっぱいになっているからかしら?」
「……スイ。ありがとうございます」
と。
そんな母さんの隣で、おばあさまが静かに口を開いた。
「
あなたたちも、と言うけれど。
お子さんを早くに亡くし、旦那さんとも死に別れて。
その上、母さん以外の家族まで
おばあさまの歩んできた道は、僕らとは比較にならないほどに険しい。
それでも、おばあさまは笑う。
笑いながらカレーをひと口、味わってまた笑い。
僕らに、言うのだ。
「それでもね。今、ここでこうしていると、思うのです。この料理を食べている私は、幸せなのだと。カズテルが好きだったというハタノ家の味を……異世界の料理が並ぶ食卓を、こうしてあなたたちと囲んでいる。それはきっと、ここに辿り着いた私だけが得られる幸せなのだなと」
「ばあば? ないてるの?」
「いいえ、泣いていませんよ。嬉しいのです」
ミントの頭を撫で、セーラリンデおばあさまは頷く。
「最後の晩に、こんな素晴らしい品を作ってくれてありがとうございます、スイ、カレン。ここで過ごしたひと月、とても楽しかったわ」
「ばあば、ばいばいしたら、またこなきゃだめなんだよ? ぜったい、ぜったい、またあそびにきてくれないとだめだよ?」
「もちろんですよ、ミント。それに、ばあばがシデラでするお仕事は、あなたたちのお手伝いなんですから。離れて暮らしていても、いつだってあなたたちのことを想っています。なにより……」
おばあさまの匙を運ぶ仕草は澱みない。
カレーを食べる勢いは、見かけと同じ——若い少女の
「ああ、美味しいわ。私もね、あなたたちに及ばないとはいえ、これでも『魔女』なんですから。短くてもあと五十年は元気でいるつもりです。これから何回も、何十回も……この家に遊びに来ますよ。その時は、カレーを作ってくださいね」
僕は、目を丸くしたカレンと見合わせた。
次いで、おばあさまの隣にぴったり寄り添うミントと。
やや呆れ気味に、それでも満足げな母さんと。
そして「わうっ」と元気よく鳴くショコラと、縁側の向こうで穏やかに草を食むポチとも。
順番に全員と視線を交わしてから、おばあさまに向き直って——、
「もちろんだよ、おばあさま。だから、楽しみにしてて。カレーだけじゃなくて味噌汁も、漬物も、豆腐も。ハタノ家の料理は、盛り沢山なんだ」
早くも空になったお皿がいくつかある。
おかわりが欲しい人は言ってね。たくさん作ってるんだから。
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