ここは楽園ではないけれど
報告を終え、森に戻ってきた。
家の周囲はいつもと変わらず、ただ冬の訪れだけが肌に吹き付ける。
みんなに『対策を考える』とは言ったし、ぼんやりとしたビジョンも見えてはいるのだが、まだまだ具体的に動けるような段階ではない。準備も含めて少しばかり時間がかかる。
だから僕らはつとめてまた、日常を過ごし始めるのだ。
「あ、みゃーみゃーだ! いらさいー!」
「わおんっ!」
明けて、翌日。
薪を切っていると、門の方でミントとショコラの声がする。顔を上げれば
まるまると太った鹿が、門の
「いつも悪いな、ありがとう。でも、無理しなくていいんだぞ」
僕は剣を鞘に納め、母猫のところへと歩んでいく。ぐるるる……と喉を鳴らす巨体は、あちこちに古傷が走り、歴戦の趣があった。それはかつて
「綺麗には治らなかったか、ごめんな。動くのに支障はないか?」
具合を確かめるように背中を撫でる。傷の部分は体毛が禿げて皮膚が引き
「子猫もずいぶんでかくなった」
もう、赤ん坊とは呼べない。乳離れもしているだろう。出会ってかなりの間、僕を警戒していたちびたちだが——さすがに最近は、唸られることもなくなった。
「まって、まって! ……ひゃあ、こしょばゆい!」
「わうわうっ! くぅーん……」
その子猫たちはミントとショコラに群がっている。
飛びかかって身を寄せ、べろべろとミントの手や頬を舐め回し、ショコラとは舌でお互いの
「この近辺で変わったことはないか?」
母猫へ尋ねる。もちろん、返事がくるはずはないけども。
「……
子供たちを見守っている母猫の隣に座り、ひとりごちた。
生物が変異種になる条件はふたつ。
ひとつは、魔力
そしてもうひとつは、自我が薄いことだ。
人のようにある程度の知性があったり、この
正確には『ならない』ではなく『限りなくなりにくい』のであって、運が悪ければ変異はしてしまうのかもしれない。ただうちのポチやこの
「……二千年前の世界じゃ、薬で獣の自我を薄れさせてた。酷い話だ」
理性を失わせて本能を強化する、そんな薬のようだった。獣たちは種類を問わず、変異種になる条件を満たされ、そうして拘束され餌を与えられ寿命まで生かされ、坩堝の渾沌を掻き混ぜる材料となる。
大陸全体が、ひどい有様だった。
泥沼の戦争の中、自国ですら制御できない
そして最後には大魔術で世界の在り方を作り変え、人々の記憶や認識を改変することで、すべてをリセットし再び歴史をやり直した。子供たちの病を治すという目的は確かに第一だったのだろうけれど、結果としてこの世界がいま平和なのは、彼らがその
「お前も、僕らも、この森で暮らし、生きてる。ここは人間社会から見ればとんでもない魔境で、楽園だなんてとても呼べない場所だけど。それでもやっぱり、
ごろごろろ、と心地良さそうに喉を鳴らすその仕草。上顎から伸びる長く太く鋭い牙はいかにもおっかなくて、実際、ワイバーンの鱗でさえ引き裂くそうだ。
ただ、鋭くても、おっかなくても、恐ろしくても。
それはこの世界に在るものだ。この世界に生きる、当たり前の生命だ。
「魔境には魔境の平和がある。それを、乱されたくはないよね」
傲慢な考えではある。
要するに——自分たちの安全は脅かされたくない、それでいて好きに狩って食って暮らしていきたい、って言っているのと同じだから。
変異種の発生も、魔王の創生も、自然の一部でありあるがままの流れだと考える人もいるだろう。もしかしたら
「……でも。だったら、僕らがそれに抗うのも自然の一部、あるがままの流れだ」
そんな僕の思考を汲んだように。
あるいは、無視するように。
ぷい、と。
『もうええやろ』みたいなノリで、母猫が僕の手から逃れ、子猫たちにひと鳴きする。
「あ、おかさんがよんでるよ! もうかえる? またきてね!」
子猫たちを引き連れて森の中へ去っていく
「さて、じゃあこの鹿をどうにかしなきゃ」
「くぅーん……きゅう……」
すると、はっはっはっはっと舌を出しながら上目遣いにこっちを見てくるショコラ。食べたいの? 今すぐ?
「しょうがないな。捌くから待ってなさい」
「わうっ! わうわうわうわう」
「喜びすぎ」
鹿を担いで門の外、解体場へと持っていく。ハンガーフックに引っ掛けてまずは血抜きからだ。
「僕もこういうの、すっかり慣れちゃったな」
でかい獣の解体もひとりでできるようになったのは、ノビィウームさんの打ってくれた包丁の性能ばかりが理由ではない。
「ミント、どうする? ポチと遊んでくる?」
「んー……すいのほうちょさばき、みる!」
「そっか。じゃあ、井戸から水を汲んできてくれる?」
「むふー。いいよっ」
アルラウネ——血と臓物を苗床に生まれた娘は、無邪気に朗らかでありながら、死のにおいも生命が解体される光景も、すべてをいつも通りの日常として受け止める。
人間の子供と比べたら、ひどく異様な環境だ。
だけど僕はそんなこの子の有り
とても、愛おしいと思う。
「すい、もってきた! つかったらまたいくよ!」
「ありがとう。なくなったらお願いするね」
大きなたらいを頭上にかかえてえっちらおっちら戻ってきたミントに微笑みかけながら、僕は包丁で鹿の腹を
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勢いとノリに任せて作られたミントというキャラクターですが、この作品の世界観、ひいてはスイたちの生き方を象徴するような子になってくれました。
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