お盆を過ぎてもクラゲは来ない
滞在、三日め。
僕らは海で遊ぶことにした。
崖から海へと続くじぐざぐの細道を降りると、そこにはちょっとした海岸がある。ラミアさんたちの漁師小屋が建ち小舟が係留されてはいるけれど、それでも潮風と打ち寄せる波音は、晩夏に心地いい。
そして母さんがこの日のために、王都でちゃっかり買ってきていたものがある。
まさかこっちの世界にあるとは思わなかったもの。
あっちの世界とはやや意匠が異なるが、それでもどこか似通ったもの。
水の中で活動するために身に着けるもの——。
即ち、水着であった。
※※※
漁師小屋のひとつを借りて着替えた。
僕の水着は膝丈のハーフパンツ。なんというか『普通』を絵に描いたようなやつだ。まあブーメランとか渡されても困るしこれでよかったんだけども。
なんちゃら地方にいる大きなカエルの革と、それから絹でできているらしい。聞いた時は「い、異世界……!」と変な声が出た。ただカエルの革の手触りは悪くない。つるつるしていて、柔らかめのゴムみたいな。内側は絹で補強されているので肌触りもよかった。
……なお、この世界における『絹』とはスパイダーシルク、つまりでかい蜘蛛の吐いた糸だそうだ。地球の
い、異世界……!
——ともあれ。
僕が着替え終わってから数分ののち。
カレンと母さんも、揃って小屋から出てくる。
「ね、スイ。どうかな?」
「ほらスイくん、こういう時はまず褒めてあげるのよ。最上級の言葉で!」
おずおずと僕の前に立つカレン。
そして、その背中を押しながら目を(期待に満ちた光で)輝かせる母さん。
「っ、えっと……うん。すごく、その、可愛いと思う」
僕はそう口にするのがやっとの状態です。
カレンの水着は、いわゆるビキニタイプだ。
決して際どいものではないが、それでもどうしてもどきどきしてしまう。意外なことに小さなフリルがあしらわれており、ファッション性にも力が入っていることがわかる。
母さんの方はワンピースタイプ。こっちはこっちでたぶん大胆な感じの意匠だと思うんだけど、いかんせん母親の水着に対してどうこう評する感性が僕にはない。というか、いつもの格好も肌の露出が多いので、あんまり差がない気もする。
「ヴィオレさまが買ってきてくれたから、私にはいまいちわからなくて」
「カレンによく似合ってるよ。他の人がいない場所でよかった」
「それって、どういう……」
と言いかけてから意味に気付き、頬を真っ赤にするカレン。
つられて僕も顔が熱くなる。
「ふふ、いいわねえ」
にまにま顔をする母さんが苛立たしい。この人はよぉ……!
「すいー! かれんー!」
そこで砂浜の向こうから走ってきたのは、ミントを背中にまたがらせたショコラ。
気まずい空気を切り裂く救世主の登場に、僕は満面の笑みを浮かべた。
ショコラは僕らの目前、二メートルくらいのところで急ブレーキをかけると、四肢のバネを利用してミントを空中へ射出する。
「わうっ!」
「いえーい!」
「おっと」
ご機嫌な声とともに放物線を描きながら飛んできたミントを、僕は抱き留めた。
「みてこれ! へんなのみつけたっ」
にゅっと突き出した手に握られているのは、ヒトデである。
たぶんヒトデ——だと思う。星型じゃなくてなんかこう、どうにも名状しがたい
「うにうに動いてるね……毒とかあったら怖いから、ぽいしようか」
「うー、わかった! えいっ」
ヒトデっぽいものは海の彼方へ、にゃるっと飛んでいった。いやほんと、時々こういう訳のわからないやつがいるんだよね異世界。トマトとか小松菜とかは普通にあるくせに。
「すいとかれんとおかさん、かっこがいつもとちがうよ?」
「これは水着っていうんだ。水の中に入るための服だよ」
「みずのなか……この、しょっぱいみず? みんとは、すなであそぶね!」
少しだけ顔をしかめ、僕の手から飛び降りるミント。
どうもアルラウネの特性として、海水が好きじゃないらしい。逆に雨とかは大喜びで浴びるんだけど、まあ植物の魔物だからわかる気はする。
「うー、しょこらもいっしょにあそぶ!」
「わおんっ!」
砂を踏む感触が楽しいのか、いつもよりも多めにぴょんぴょんするショコラ。こいつもたぶん、海水浴は好きじゃないっぽい。……毛をべたべたにされると洗うのに苦労しそうだし、そっちの方が助かるか。
「とはいえ僕らも、がっつり泳ぐってほどでもないんだけど」
カレンの手を引き、波打ち際に歩いていく。
足裏の砂が
一方でカレンは慣れないようで「ひゃっ!?」とびっくりしてその場で足をばたつかせていた。かわいい。
「ね、スイ。私その、泳げないから、遠くへは」
「わかってるよ。でもそんなに怖がらなくても大丈夫。僕の結界は溺れるのも防いでくれるからね」
ごく浅瀬、膝くらいが浸かる辺りまで進み、僕は沖を指差した。
「ほら、ラミアさんたちの舟があんなところまで出てる」
「ん」
「更に沖、海の向こうってなにがあるの?」
「海を隔てた北には、オーロラ共和国がある。そこまで遠くないから交易も盛ん」
「王国とは仲がいいの?」
「昔はあんまりだって聞いた。でも、ヴィオレさまとおじさまが
「そっか。父さんと母さんはすごいな」
海の冷たさを感じながら、僕はカレンの手を握る。
カレンは僕へと身体を寄せてきた。足元の海水が不安なのか——それとも、僕を愛しく想ってくれてのことなのか。
「……スイは、連合国とか獣人領とか、行ってみたいと思う?」
「まあ、いつかは見てみたい気持ちはあるけど……どうしたの?」
「ヴィオレさまとおじさまは若い頃、大陸中を旅してた。おじさまが世界を見て回りたがったから、そうしたみたい。……スイも、同じなのかなって」
「そうだなあ」
海の向こう、空の彼方。
いろんな未知があって、広い世界があるのだろう。
わくわくするような冒険が味わえるに違いない。
それに魅力を感じないかといえば、嘘になる。
けれど。
「ねえカレン。僕はいま、幸せだよ。きみがいて、母さんがいて、ショコラがいて、ミントもポチもいて、それに
外へ目を向ける前に、もう持っているものを大切にしたい。
そして、ついこの間、手に入れたものを——
「僕らは、父さんと母さんとは違うんだ。いつかはふたりみたいな夫婦になりたいと思うけど、それはまるきり同じって意味じゃない。真似しなくていいよ。僕らは僕らなりに、地道にこつこつやっていこう。この森で、地に足をつけて、家族とあの家を大切に。……カレンは、それじゃ嫌?」
「ん、嫌じゃない。私も、それがいい」
頭を肩に預けてきた愛しい人の肩を、僕は抱き締めた。
青い海は目前に果てしなく広がっていて、けれど、その先にどれほど輝かしいなにかがあったとしても——僕の隣にいる宝物より、価値があるとは思えないんだ。
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