傷を撫で、標を見る
そうして——表向きは穏やかな時間はあくまで、のんびりと過ぎていく。
お昼になり、ご飯を作った。冷蔵庫に保管してあった肉を焼き、作り置きの惣菜を
ミントには豆乳とコンソメで作ったスープを飲んでもらった。幸いにも「おいしい!」と喜んでもらえたけれど、これで栄養が充分なはずもない。大豆でたんぱく質を補ったのも気休めだ。
それでも僕らは、いつものようにきゃっきゃとはしゃぐミントの笑顔を受け止める。受け止めなきゃいけない。たとえ一分一秒であっても、この子に悲しい思いをさせたくはないから。
昼下がりとなり、積み木で遊んでいたミントが飽きたのか、頭をこっくりこっくりとし始めた。カレンがそっと抱き留めてとんとんと背中を叩いていると、やがて寝息が聞こえてくる。ソファーに寝かせてタオルケットをかけてやりながら、思う。
——母さんが帰ってくるのって、いつなんだろう。
今日のうちなのか、それとも明日になるのか。王都まで足を伸ばすと言っていた。ジ・リズの翼でどのくらいの時間を要するのか僕はよく知らない。でもきっと母さんは必死に、できる限りのことをしてくれるはずだ。
僕は、それに応えることができるのか?
「スイ。あまり思い詰めないで」
カレンが僕の背をそっとさすってくる。さっきミントを寝かしつけた時みたいに、優しく、慈しむように——それでいて、伝わってくるのは、痛ましさ。
「……ごめん、なさい」
——と。
彼女は消え入りそうな声で、僕に言った。
「私が、スイを苦しめてる。私はなんの役にも立たない。あの時、スイに救ってもらったのに、病気を悪化させた。私のせいでスイは、あっちに飛んじゃった。そして今も……私を救ってしまったから、スイはそれを思い出さなきゃいけなくて。私のせい。ぜんぶ、私の……」
「違う」
「……っ」
僕は振り向き、思わず。
カレンを抱き締める。
「違う。そんなことを言わないで。……カレンのせいじゃない」
彼女が泣きじゃくるのを見るのは、これで三度めだ。
でもその感情は、二度め——父さんのビデオメッセージを受け取った時とは違う。
一度め—— ■を看■してくれていた時と同じ。
後悔と悲嘆と絶望に暮れた、まるで見ていられない、ぐしゃぐしゃの——ああ。
記憶が、ある。
「……僕を、看病。してくれてたね」
「おもいだした、の?」
「ぼんやりと。意識はほとんどなかったと思う。カレンに魔術を使って、僕は倒れて、そこから先は……そうか。僕が倒れたせいで、きみを悲しませちゃった」
僕の受けた『神の
それがカレンの属性
無理もない。
『神の寵愛』は、未発達な魔導器官が魔力制御を上手くできないことに端を発する病だ。僕はそんな状態で高度な魔術を使った。意識を失ってぶっ倒れたみたいだけど、そのまま死んでしまっていてもおかしくなかったんだろう。
具体的にどんな魔術を使ったのかはわからない。まだ思い出せない。
けれど幼い僕は、やった。過去に一度、成し遂げている。
その事実を確認できたこと、実感を得られたことで、なにか——僕の心の奥に、すとんと落ちていくものがあった。
僕は微笑む。
「だからカレンは昨日、母さんを止めようとしたのか。怖かったんだね。ごめん、悲しいことを思い出させて。ごめん、つらい思いをさせて」
「なん、で。スイが謝るの。私なのに。わたしなのにぃ……」
「いいんだ、ありがとう。僕は大丈夫。もう、あの時みたいな子供じゃない。魔導器官だって安定してる。だから」
「っ、スイ、それは……」
落ち着かせようとゆっくりカレンの頭を撫で、安心させようとまた抱き締めようとした、その時だった。
「——うっ、わう! わん、わんわん!」
庭。
縁側の向こうから、ショコラの吠える声が聞こえてくる。
それも、僕らを呼んでいるような。
「どうしたんだろ。というか、いつの間に外に……」
さっきまでミントの傍で寝そべっていたと思ったのに。まああいつ、今はひとりでも玄関のドアを開けられるようになってるし、外に出てても不思議じゃないんだけど。
それにしたって僕らを呼ぶのは何故だ? 母さんが帰ってきたわけでもないのに。
「なにかあったのか? ショコラ」
僕は掃き出し窓を開け、サンダルを履きながら縁側に降りる。
庭の真ん中にいたショコラは僕の姿を認めると、
「わうっ!」
あっちあっち、とでも言うように門の方へ鼻先を向けて、
「な……っ」
そこにいた影に、僕は目を見開く。
「どしたの、スイ」
「カレン、あれ」
肩越しに問うてきたカレンに、それを指差す。
彼女も認めるや、驚いたように口を開いた。
門の前——いや、門を半ば以上も超えてほとんど庭の中に。
サーベルタイガー。
どうやって入ってきたんだ。結界が作動しなかった? なぜ?
頭の中に浮かんだ疑問はしかし、身体強化をかけた視力でそいつの姿をよく見てすぐに吹き飛ぶ。
「ね、あれ、この前の……」
「うん、間違いない。でも」
子連れの
血まみれで弱々しくなった、
僕はゆっくりと近寄る。
途中で合流したショコラが「くぅーん」と鼻を鳴らした。その頭をぐりぐりと撫でながら
親は、僕が正面で止まったのを見上げてから地に横たわった。
ほとんど倒れるように、もう限界だというように。
子猫たちがみいみい鳴きながら、その腹に群がる。
おっぱいを求めて——ああ、母親だったのか。
「怪我、あの時の。治ってないどころか、悪化してる」
カレンが呆然とつぶやく。
この親子と邂逅したのは三日前。
方々の傷は赤黒く変色し、ところどころが
それは、死の
けれど
「お前……この子たちを、託しにきたのか?」
ぐるるる、と。
そいつは肯定の
確信した。
伝わってきた。わかってしまった。
こいつは自分が助からないことに気付いた。
覚えていた匂いをたどり、この家を見付け、そして。
どうか、頼むと。
この子たちのことを、頼めないかと——。
「っ……なんだよ、ふざけるな」
視界が
胸に激情が込み上げてくる。
みい、みい、みい、と。
子猫たちが僕に気付き、首を低くして身構えてくる。
お母さんを、守ろうとしてるのか。
「スイ、その子たち」
「……ふざけるな」
僕は吐き捨てた。
唇を咬みながら、拳を握りながら。
「僕はもう、
目がちかちかする。
言葉が、感情が制御できない。
なんなんだよ、ふざけるな、畜生——あらゆる
「僕をこんなに警戒してるのに、懐くと思ってんのか? こんな小さな命をこれ以上、背負えるわけないだろ。お前以外に誰がこいつらを守れるんだよ。野生動物の飼育方法なんて知るわけないだろ。こいつらを育てられるのは、お前だけなんだ!」
激情とともに大声をあげて、それなのに、一方で、
頭が、どんどん冷えていく。
指先が冷たい。
それでいて、身体を巡る魔力の冴えを感じる。
——ああ、そうか。
カレンが泣きじゃくっているのを見た時——
属性相剋を治した過去を実感し——
そして今、満身創痍の
「だから、いいか」
母親の身体、背中。
膿んで腐りかけた傷口に手を置き、心に満ちていく確信とともに僕は言う。
「諦めるな。僕が、お前を治す」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます