夏の予感にブラシをかける
ノアくんの話を母さんから聞かされたといって、今日明日でどうこうということにはさすがにならない。こちらにはこちらの、向こうには向こうの生活があるからだ。そのうち、タイミングが合えばじっくり話してみよう——という感じである。
で、僕はといえばここ最近、夏の訪れをひしひしと感じる日々が続いている。
といっても気温の変化によるものではない。森の中は今に至ってもだいぶ涼しく、というか
じゃあいったいなにに対して『夏』を感じているのかといえば——ショコラである。
我が家の愛犬に、
※※※
「お前いつもながら本当に、
「ばうっ!」
当のショコラはなんか気持ちよさそうに舌を出していて呑気なものだ。
母さんが「最近ショコラの脱け毛が多くないかしら」と言い始めたのは二日前のことだった。
長いこと一緒に暮らしていた僕はすぐにあっとなったのだが、子犬の頃のショコラしか知らない母さんやカレンは思い至れなかったようだ——犬は、春から夏にかけて冬毛が脱けて夏毛に生え換わることを。
特にショコラは毛量が多い。あれよあれよとソファーが毛だらけになった。
幸いにして二階の物置にはけっこう強力な掃除機があり、すぐに掃除はできたのだが、残念なことにショコラの換毛期はしばらく続く。みんなのくしゃみが増える前に、当面の屋内立ち入り禁止令が出されてしまった。
というわけで牧場の片隅でしゃがみ込み、ショコラをブラッシング中なのである。
「でも、それでもお前の換毛期って、普通の犬より短いんだよな」
「わふ? くぅーん」
「十日もあれば終わるかな、いつもみたいに」
一般的な犬は、春頃から初夏にわたり、ひと月半ほどをかけてゆっくり生え変わる。だけどショコラはその辺が早い。日本にいた頃は個性だと思ってたんだけど、たぶん
ただ急速に生え変わる関係で痒いのか、放っておくと身体をわっしゃわっしゃ後ろ足で掻きまくるし、これでもかというほどの毛が出てくる。適当に手を突っ込んで掴んだら束がごそっと引き抜けるほどだ。
「しょこら、へいき? びょうきじゃない?」
心配そうな顔をしたミントが、地面に落ちた毛の束を手に取る。
「病気じゃないよ。犬の毛って、あったかいでしょ」
「うん、あったかあ!」
「でもこれから夏が来て、暑くなるよね」
「そーなの?」
「そうなの。だから夏に備えて、短い毛に生え変わるんだ」
「うー……わかんないけど、びょうきじゃないならいい!」
にぱあと笑んで、ショコラに抱きつく——本当にわかってなかった。
「わ! け、いっぱいついた!」
「ああ、顔中に……頭にもいっぱいついちゃって」
「あはは、くすぐったい!」
「わう……」
毛だらけになってきゃっきゃとはしゃぐミントに、どうしたらいいのかわからずお座りの姿勢で佇むショコラ。
「くしゃみ出るからあっちでポチと遊んでおいで」
「うー! しょこら、またね!」
「くぅーん……」
悲しそうに鳴いてもどうしようもないんだ。ごめんな……。
「すごい。羊みたい」
代わりにというわけではないが、カレンがやってきた。
しゃがみ込み、山になっている脱け毛を眺めながら感心する。
「これ、パルケルに高く売れないかな」
「本当に買いそうだからやめようね?」
クー・シーを崇めている彼女にとっては、ひょっとしたらありがたいやつなのかもしれない。売りつけるのはないとしてもあげたら喜ぶかと思ったが、飼い犬の脱け毛をわざわざ持っていって「欲しいですか?」はないよな……ない。
「スイ、私にもやらせて」
「いいけど、ほどほどにね。自然に生え変わってる最中だから、無理に抜くのもよくないんだ」
「ん、わかった」
櫛を受け取り、ショコラの首から背中にかけてゆっくり押し付けていくカレン。
「くぅーん……」
「気持ちいいの?」
「やっぱり痒いみたいだからね」
「よしよし。がしがし」
「くぅーん……きゅう……」
ショコラが伏せの姿勢でうっとりと目を細める。
「前々から思ってたけど、カレンってショコラをとろけさせるの上手いよね……」
「ふふん、子供の頃はスイよりも私の方に懐いてた」
「いやそれはない。構いすぎて逃げられたりしてたじゃないか」
「悪意をもってだとそういう表現にすることもできる」
「事実だし……」
その間もがしがし、がしがし、と。カレンはショコラのブラッシングに余念がない。
「すごい、わっしゃわっしゃ取れる」
「今年はいつになく多い気がするな……」
「こっちに帰ってきて、調子が戻ってきた?」
「わうっ!」
「確かに、日本にいた頃より元気がいいよねお前」
あっちではそもそも、僕がこいつをおじいちゃんだと思い込んでいたというのも大きい。あまり無理をさせないように気を付けていたつもりが、結果としておとなしくさせてしまっていたのかもしれなかった。
「ねえ、スイ」
——と。
ショコラの気持ちよさそうな顔を見ている僕に、カレンがぽつりと問うてきた。
「さっき子供の頃の話をしたけど」
「うん、したね」
「昔の——こっちで暮らしてた時のこと。もう、全部……思い出した?」
何故だろう。
カレンのその声は、どこかおっかなびっくりしていて。
背中を向けたまま、僕を見ようとしないままで。
「……いや。そもそも子供の頃のことだから、曖昧な部分も多くて。いま思い出せていることが『全部』のうちのどれくらいなのかもわかんないかな……ごめん、僕もしかして、なにか大事なことを忘れてる?」
「なんでもない。尋いただけ。はいショコラ、もうおしまい」
「くぅーん……」
「そんな声出してもだめ。無理に抜きすぎるとよくないってスイも言ってる」
戸惑ったのも束の間。
カレンは立ち上がり、こっちを振り返って櫛を差し出してきた。その顔はいつも通りで——少なくとも僕に、普段と違うものは読み取れない。
「はい、返す。……ミントとポチの様子、見てくる」
「ああ、うん。ついでに
こくりと頷いて去っていくカレンを見送りながら、僕は首を傾げる。
「やっぱり僕、大事なことを忘れたまんまなのかな……?」
「わう?」
「でも、それならカレンはもうちょっと、意地の悪い顔をするよね」
「わう」
あんなに大切なこと忘れちゃった? とか。
覚えてないならキスしたら思い出すかも、とか。
そうやってからかってくる気がする。
それは、なによりも僕が傷付かないように。大切なことを思い出せないことで、僕がカレンに罪悪感を抱くのをわかっているから、そうさせないように。
「……なにか、あるのかな。もっと別の」
たとえば、思い出してほしくないことがある、とか——。
考えても仕方ないか。
僕はショコラの傍に山と積まれた脱け毛を弄びながら、思案をやめる。
「家の周りに蒔いとこうか、これ。お前の縄張りだってアピールできるかも」
「わんっ!」
ショコラの頭を撫でながら、立ち上がった。
日本に比べれば全然たいしたことないとはいえ、夏の熱気はじんわりと、僕らの頭上から降り注いでいる。
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