雨と、なんでもない日に
雨季が始まるとどうなる?
知らんのか。雨が降る。
……という訳で、じわじわと湿りつつあった空気が雨雲を湧き立たせ、ついに降り始めた。これからひと月近くはこういう天気が続くそうだ。
「塀の改修はなんとか終わったけど、これからしばらくはいろいろ
縁側から庭を眺めながらひとりごちる。
日本の梅雨を思い出すが、やはり空気感というか、風情が違う。雨の調子は、しとしと、というよりも、だばだば、と形容するのがいいように思える。この調子では森の様子もいろいろ変わってくるだろう。
「山が近かったら土砂崩れとか気にしなきゃいけなかったかもしれないから、そこは幸運だったかな。川の様子はやっぱり気になるけど」
「ん、
ソファーに腰掛けてお茶を飲むカレン。
「魚もしばらくいなくなるかなあ」
「別のやつが獲れるかもしれない。
「ワニ、いるの?」
「もう少し下流の、川幅が広くなってるところにたぶん、いる。水が増えたらのぼってくるかも」
「というか美味しいの、ワニって」
「そこそこ。スイがどんなふうに料理するのか楽しみ」
期待を込めたきらきらした目でこっちを見てくるカレン。
いやその、僕の料理の腕を評価してくれるのはいいんだけど、ワニとか未知の食材だからね? どんな感じなんだろう。鳥に近いのか?
「とはいえ、食材を工夫しないといけないのは確かだよね」
他の獣たちも生息域を変えてしまう可能性もあるし、なにより——仕入れが難しくなる。
長雨の最中は土がぬかるみ、
「雨季が始まる前にもう一回、街まで行っとけばよかったな」
最後にシデラへ赴いたのは半月ばかり前となる。
僕がそう言ったのと同時、二階で作業をしていた母さんが戻ってきた。
「そういえば、コンソメはどんな調子なの? スイくん」
キッチンへ向かいながらそう尋ねてくる。
「順調ではあるみたい。今は冒険者たちに試してもらってるとか」
先月の下旬、
「雨季を利用して、保存性や保管方法なんかを模索するって言ってた」
「じゃあ、雨季が終わったら量産が始まるのね」
「問題なければね。生産施設の準備も始めてるみたい」
まずは冒険者たちに。
街での生産体制が整い、安価になってくれれば住民たちにも。
そこから更に評判がよければ街の外、国内へ。
不安もあるが、喜んでくれる人はきっといると信じている。
「……それにしても、不思議な光景ね」
母さんが僕の隣に立ち、縁側から庭へ視線をやった。
屋外——庭では、ミントが天然のシャワーを浴びている。
足を根に変えて一本の花のようになり(いやそもそもあの子は花なんだけど)、目を閉じて顔をあげ、雨に打たれるがまま
その隣にはポチが地面に腹をつけ、ぼんやりと寄り添っている。どうも雨なんてお構いなしみたいだ。ちなみに
「ショコラも一緒に浴びにいくか?」
「くぅん」
「お前は雨が面倒なタイプか」
縁側、
「塀が拡張できて、ポチが気軽に庭に来れるようになれたのもよかったな」
「そうね。今まではぐるっと迂回しなくちゃいけなかったから」
牧場と家の庭とを隔てる塀は今やない。
そのお陰で、ポチがふらっと庭まで遊びに来てくれることが増えた。
ポチが賢いのかショコラが言い聞かせてくれているのか、畑の野菜や、父さんのお墓の周りに咲いた花を食べたりはしない。もちろん踏み荒らしたりも。
それにしても——。
庭にトリケラトプスっぽいでかい生き物と、植物の身体を持つ少女がいて。
居間のソファーではエルフの女の子がお茶を飲んでいて。
隣に立っているのは、ほんの二カ月前に再会した生き別れの母。
ほんの少しの間に、僕とショコラを取り巻く状況は随分と変わった。
「……こっちに戻ってくる前の話なんだけど」
だから僕は縁側に腰掛け、ショコラの背中を撫でながら言う。
「雨って、
交通機関のこととかコンビニの話とか、母さんやカレンは意味がわからないだろう。だけどそれでも黙って、僕の話に耳を傾けてくれる。
「憂鬱な気分でいると、不幸なことばかりが余計に目について、不幸ばかりが起きてるように錯覚する。降ってくる雨そのものが、降りかかってくる不幸と結びついて、雨を見ただけで更に憂鬱な気分になる」
ざあざあと降る雨の音に混じって、みんなの音がする。
「……でもさ」
カレンが飲むお茶のティーカップが、かちゃりと置かれる音。
すぐ隣でこっちを見る、母さんの息遣いの音。
ショコラを撫でる手から伝わってくる、鼓動の音。
そしてポチの巨体が弾く水滴の音と、
身じろぎしないミントから聞こえる、しん——という無音。
僕はそれらの音に、自分の音を混ぜる。
「今は、そうでもない。雨がひと月も振り続けるのは面倒だなって思うけど、どんなひと月を過ごすんだろうって楽しみな自分がいる。そしてそんな自分に気付くと、昔の思い出もなんだか違って見えてきた。傘を差したり、濡れないように気を付けたり、渋滞にうんざりしたり……いま考えてみたらそういうのも、別に不幸なことじゃなかったんだなって」
湿気にまみれ、足元を濡らしながら学校から家へ辿り着く。
着替えてさっぱりして夕食の用意をしていると、父さんが帰ってくる。
父さんも湿気にまみれていて、足元が濡れていて、うんざりした顔をしていて。
それでも僕らは「ただいま」「おかえり」と笑い合った。
「……だから、これから先のひと月もきっと」
縁側から庭に出る。
傘もない、靴も履いていない、雨を遮るものはない。
ぬかるんだ土が裸足の足裏にまとわりついてきて、服はあっという間に重くなっていく。髪からしとどに雫が垂れて、肌着にも水が染みてきて、濡れそぼっていく全身が気持ち悪い。
気持ち悪いけど——。
ミントが僕の接近に気付いて
怪訝そうな目でこっちを見ている。
「すい?」
「——気持ちいいね、雨」
僕はミントに笑い、空を仰いだ。
故郷である異世界の雨はまるで容赦がなく、それでもあの日、足元を濡らして帰ってきた父さんを出迎えた時のように、僕は笑う。
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