インタールード - 自宅:終夜
真夜中の森は静かだ。
まったくの無音ではない。木々のたてる葉
昔は、夜なんてただ静かなだけだと思っていた。自然の息遣いなど雑音としか認識していなかった。暗くて怖くて不安ばかりをかきたてる、それが夜だと思っていた。
小さなざわめきに耳を傾けることで、静けさに輪郭ができること。
そして暗闇に身を委ね、心を夜に解き放てば、不安すら己の一部となる。
無音の中に、しん、という音がする——。
彼と初めて過ごした夜に、彼が教えてくれたことだった。
家の屋根にのぼり、そこに腰掛けたヴィオレは、星空を眺めながら夜を感じていた。
それは彼女にとって、最愛の人を感じるということでもある。
心の中に息づく彼の思い出と記憶を闇に浮かび上がらせれば、まるで彼がそばにいてくれるような気がする。いや、いるのだ、間違いなく。
だって夜とは、闇とは、そういうものなのだから。
屋根に投げ出した足をぱたぱたと揺らしていたヴィオレの横に、ふと、気配が立つ。
「……あら、どうしたの?」
顔を横に向けると、そこにあるのは黒の奥に白金色の光を宿した瞳。
頬に擦り付けてきた鼻先を撫でながら、ヴィオレは笑った。
「あなたも星を見に来たの? ショコラ」
「くぅーん」
ショコラは小さく喉を鳴らし、ヴィオレの横にだらんと身を伏せた。
「こんなところまでのぼってきちゃって。スイくんに危ないって叱られるわよ」
「わう」
「ふふ、そうね。その時は、お母さんも一緒に叱られてあげる」
背中をゆっくりと撫でる。
撫でた掌から柔らかな毛並みと、あたたかな体温が伝わってくる。
大きくなった、と思う。
息子と同じで——いつの間にか、私のいない間に、本当に大きく。
「ねえショコラ、覚えている? あなたを拾った時のこと」
「わう?」
あれはもう、何年前になるだろうか。
王国から南東にある、獣人領の北端に刻まれた幽谷——ヘルヘイム渓谷。
その奥深くでヴィオレたちは、両親の死体を前に悲痛な鳴き声をあげ続けていた子犬を見付けた。
ヘルヘイム渓谷はここ『
親犬の仇を討ったのは、ヴィオレだ。
ただそれは、たまたま変異種が自分達と出くわしたからに過ぎない。出くわした、だから殺した、それだけだ。
当時のヴィオレにとって、命を賭して子を守る親など冷笑にも値しない虚飾であり、感傷など持ちようもない。まして相手は獣——魔物だ。
ヘルヘイム渓谷に棲む
そんなことしか思えないほどに、当時の自分は
——連れて帰る? 正気なの?
だから、呆れとともにそんなことを言った。
犬の一種とはいえ、クー・シーは魔獣だ。
決して人に懐かない。人を主と仰がない、家族だなどと認めない。たとえ子犬でもそれは変わらないはずだ。下手をすれば長じて牙を剥き、害をなすこともあるだろう。
故にこのまま捨て置いて、自然の成り行きに任せておけばいい。
なのに、自分が育てるだなどと
異世界から来た、こちらの道理を知らない甘ちゃんが、綺麗事を言う——。
「おいで」
あの時のことを思い出しながら、ショコラに手を広げる。
「わうっ!」
ショコラは飛びついてきた。尻尾をぶんぶんと振って、遠慮なくべろべろとヴィオレの頬を舐め回す。ぎゅっと抱き返すと、胸に込み上げてくるものがあった。
「私の思い込みに反して、あなたはすぐに懐いてくれたわね。あの人にだけじゃなく、私にも。……あの時、私の手を舐めてくれたあなたに、歪んでいた私の心がどれほど救われたか。あなたの体温に、私の凍り付いた心は溶けていった」
——よしよし、いい子だね。
あれは、ショコラだけに向けられていた言葉ではないんだと。
今になってみると、よくわかる。
「ねえショコラ、あなた、自覚してたの? それとも無意識だったの?」
「わふっ?」
「今日の昼間……あなたはアルラウネを排除しようとしなかった。危険かもしれないとわかってて、それでも決断をあの子に
一方的に狩れる状態であったのに、スイの到着を待った。
吠えることもやめ、大人しくし、スイに決めてもらおうとした。
それはきっと、子犬だった頃の自分と——。
ショコラを撫でながら、屋根の下、闇の奥、正門の向こうへ視線を向ける。
解体場の横に生えた大きな植物。芽吹きを待つ、生まれかけの魔物。
あれが本当にアルラウネかどうかの確証はまだない。アルラウネがどんな魔物なのかもわからない。ただ、マンドレイクの亜種であるならば人を襲う可能性は高い。そもそもが死体を埋めた場所で芽吹き、血と内臓を養分として育った存在だ。百人に
だけど、それでも。
『見守ろう』——あの子は、そう言い出すんじゃないかと思った。
だって、目が、そっくりだったから。
※※※
本当に——今になってみると、よくわかる。
あの時の甘い言葉は、揺るぎない覚悟を孕んでいた。もし子犬が長じて他者を害すようになっていたら、自分で始末をつけるつもりだったと、後で聞いた。
あのクー・シーたちが親としてどれほど誇り高く、どれほど立派で、どれほど強く生きたのか。そして、どれほど無念だったか。
家族ができて初めて、打ちのめされるほどに思い知った。
かの異世界は平和で甘く、呑気なほどに優しいようだ。
だからあの人もあの子も、幼い生命を前にすると不安になる。殺すか生かすかの逡巡を生じさせ、生かす方を選んでしまう。それが人の子であっても、魔物の子であっても。
死ぬこと、殺すこと、生かすこと、育てること。
さっさと切り捨てれば楽なのに、見守ろうとする。
それでいて自身の決断に、拾った生命にまで責任を持とうとする。
その甘い優しさは、この残酷な世界にあって、どれほど得難いものか。
あの当時の自分はもう、内心では彼に——彼のそんなところに、どうしようもなく惹かれていたのだ。
だから——そう、だから。
当時は、当てつけたような棘のある口調ではあったけれど。
今日は、泣きそうなのを必死で堪えながらではあったけれど。
恋をしていた大好きな相手に。
愛した人とそっくりな息子に。
ヴィオレは彼らを、同じ言葉で肯定したのだ。
——ええ、それがあなたの決めたことなら……と。
「くぅーん」
こちらの感情を察したのか、どこか心配そうな目で見てくるショコラに、ヴィオレは微笑みかける。
「よしよし、いい子ね」
あなたも、あの子たちも、みんないい子。
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