強くなくてもいい、ただ
スイとショコラを背に乗せた
その姿が木々に隠れて見えなくなってから、カレンは義母——ヴィオレに尋ねる。
「よかったの?」
もちろん、ショコラが一緒ではある。だがあの子はやっぱり犬なので、待ち受けているかもしれない残酷な光景からスイを守ってはやれない。そしてその——残酷な光景が待っている可能性は決して低くないと、カレンは思っていた。
通信が途絶したのが昨夜。
せっかく戻ってきてくれたのに、悲劇をわざわざ見せる必要はない。
スイが暮らしていたニホンは、争いのほとんどない平和な国だったという。きっと慣れてはいないだろう。なら、この世界に溢れてありふれているもの——理不尽な死と別れから、優しく遠ざけてやってもいいのではないか。
父を
ヴィオレはカレンの問いへ、溜息混じりに微笑んだ。
「むかし、あなたたちがまだちっちゃかった頃ね。あの人に言われたことがあるの」
「おじさまに?」
「あの頃……私はあなたたちを、大切に育てようと必死になってた。大切にしたい、大切にしなきゃって強く思って、過保護になってた。そしたらね、お父さんから叱られたのよ。『大切にするのと、甘やかすのは違う』って」
「たいせつにする、のと……あまやかす」
「ええ。それをね、思い出したわ」
ジ・リズが飛び去った空を目で追いながら、ヴィオレは続ける。
「あの子がつらい思いをするかもしれないって考えるといてもたってもいられないけど……でも、スイくんはもう、私の記憶にあるちっちゃな子供じゃないのよね。立派なひとりの大人。だからお母さんの役目は、甘やかして守ることじゃなくて、いってらっしゃいって送り出すこと。あの子の想いと選択を、大切にすること」
「ん、わかった。じゃあ私も、準備をするね」
「ええ。あなたも同じよ、カレン。立派なひとりの大人として、やるべきことをやりなさい。お母さんがちゃんと、家で待ってるから」
ヴィオレはカレンの頭を撫で、その髪に口付けをする。
だからカレンは目を閉じてその愛情を受け止めた後、支援物資を準備すべく家の中に駆けていった。
※※※
飛び降りたのはたぶん二十メートルくらいの高さからで、でも特に怖いとは思わなかった。身体強化に慣れてきたからか、普通にいけるな、という感覚があった。
着地の際もあまり大きな音をたてず、しゅたっといけたと思う。
「ベルデさん! ああ、シュナイさんも……無事ですか」
すぐに周囲を見渡すと、呆然とこっちを見ている
他にも冒険者たちが、陣形を組んでいるのか四角形にまとまって——二十人くらい。意識を失っているらしき人や、血をべっとりと手足にこびりつかせている人もいる。
息を呑み、呼吸を整えながら
「怪我人の、傷の具合は? あと、その……亡くなった方がいたりはしますか」
「い……いや、大丈夫だ」
答えたのはシュナイさん。ベルデさんはなんだかぼんやりと——呆然と? している。
「命に関わるような負傷をしたのはまだいねえ。死人も出てない」
「よかった……」
深く息を吐く。心に
「この状況がなんとかなれば全員が無事に帰れる。その認識で合ってますか?」
「いや、合ってはいる、けどよ……」
シュナイさんは苦々しげな表情を崩さない。それに見渡すと、冒険者の皆さんも一様に暗い顔をしている。え、なにこの雰囲気。誰も死んでないんだよね? それとも僕、なんか空気読めないこと言った?
「来てくれたのは嬉しい。感謝してる、スイ。だけど、その……お前ひとりか」
「いえ、ショコラもいますよ」
「わうっ!」
僕と一緒に華麗な着地を決めたショコラは、名を呼ばれて元気よく吠えた。だけどショコラのかわいさも場の空気をやわらげてくれなかったらしい。
皆さんがぼそぼそと交わす会話が、身体強化で鋭敏になった聴覚に届いてくる。
「
「お前ら、ちょっと黙ってろ!」
ぽかんとしてこっちを見ているだけだったベルデさんが、ようやく我に返り——
「
「この前、喫茶店で軽く聞いただけです。しつこいんでしたっけ?」
「見ての通り、変異種が率いてやがる」
「そうみたいですね。あのバリバリいわせてるやつか」
「スイ……やれるのか?」
僕は返答の代わりに、足元の相棒に号令をかけた。
「ショコラ」
「わおんっ!!」
森の薄暗がりの中、ショコラは身を屈めて土を蹴り疾駆する。牙に光の魔力を纏い、それを一条の
そして——。
暗がりの向こう、角の生えた馬が一頭、くずおれる音と。
切断の勢いで宙を舞った首が、くるくる回転しながら地面へ落ちる音。
「よしよしよし」
「くぅーん」
頭をわしゃわしゃと掴んでやると尻尾がぶんぶんぶん。返り血の一滴もついてないのすごいよね。
僕は立ち上がり、ベルデさんに向き直って笑う。
それから、
「うちのショコラは見ての通りです。正直、僕はそんなに強くないと思いますし、そこまで強くなくてもいいかなとも。ただ……」
さっきのベルデさんが感染したのか、揃ってぽかんとしている冒険者の皆さんの顔を順番に見て——。
剣を抜いた。
魔剣リディル。父さんから受け継いだ、ノビィウームさんのお師匠さまとの絆の証。ふたりの想いが宿るその刃を変異種に向け、僕は宣言する。
「——ベルデさんたちがこれ以上、傷付くことは絶対にありません」
※※※
後方から
「はあ……張り切っとるのう」
スイとショコラが飛び降りた場所には変異種がいた。あれ特有のぐちゃぐちゃな魔力波長を感知すると
乱雑でとっ散らかった
それがどうだ。スイの魔力には一切の澱みがなく、干渉を完璧に跳ね除けている。それどころか安定したまま加速度的に増大し、増大しながら凝縮している。
本格的に、目覚めつつあるのだ。
スイは——いや、あの一家は揃っておかしい。
連絡をもらい、すっ飛んでいき、事情を聞いた。スイとショコラだけで
母のヴィオレは、息子が残酷な光景を見ることになるのではないかと案じていた。
義娘のカレンは、救援物資の中身をどうしようかと悩んでいた。
そしてスイは、友人たちの安否を気にしていた。
誰ひとりとして、スイの安全について心配している者はいなかった。
何故なら——怪我などするわけがないから。
濃い魔力の中で外界よりも強力な獣どもが
その異様、その異常、その異質。
変異種がいることを理解していて、躊躇など微塵もせず、愛犬とふたりでひょいっと飛び降りていったスイの背中を思い出す。
夜の闇よりも黒く、なのに陽だまりよりも優しい、あの
長いこと生きてきたしこれからも長いこと生きていくだろうが、あれほどまでに深い闇の魔導を持つ者は、おそらく後にも先にも現れまい。
はあ、と。うなだれながら、ジ・リズはハタノ家を目指して飛ぶ。
「カズテル殿と
ぼやきは空に溶けていった。
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