僕らに遺されたもの

 二階、階段をのぼった先、左手前。

 開かずの間。


 鍵がかかっていて——さすがに壊してまで中を確かめる気はしなかったのでそのままになっていた一室を前に、母さんが首から下げた鍵をひらひらさせながら微笑む。

 やけに大仰なデザインのそれは、異世界こっちで作られたものだろう。


「ここがなんの部屋だったか、スイくんは覚えてる? ……いえ、思い出した?」

「うん、思い出したよ。父さんと母さんの部屋だ」


 もちろん『思い出した』のは当時の記憶も含めて、だ。


「ここで遊ぶのは禁止だったね。カレンと一緒に入ろうとして、何度叱られたことか。結局、鍵がかかるようになっちゃった」


 この年齢になって考えると、夫婦の寝室なんて不可侵領域そのものだ。いくら子供であっても中で好き勝手してはいけない。


「これはその時の鍵よ。ふたつ作って、お父さんとお母さんがひとつずつ持ってたの」

「そっか……家の鍵とは別に、どこかに仕舞ってたのかも」


 母さんが鍵を差し込み、回す。

 ドアはあっけなく開いた。


 中に入ると、そこはまさに父さんと母さんのための空間といった趣き。


 しかもこの部屋だけ——家具の意匠が、明らかに現代日本のものではない。

 木彫りの装飾が施されたダブルサイズのベッドがひとつ。

 古めかしい化粧台がひとつ。

 それからクローゼット、事務机、ほぼすべてが異世界産だ。


「っ、あの時のままだわ……」

 

 ずっと僕に母親の顔だけを見せようと頑張ってきた母さんが、ついに声を詰まらせた。だけどすぐさま、ぱん、と自分の両頬を叩く。


 そうして事務机の上にある、黒くて四角い物体を指さした。


「あれ、スイくんはわかるわよね」

「ノートパソコンだ」

「十三年前にあの人が使っていたものとは形が違うわ。向こうで買い直したのかしら」

「パソコンは新型が出るのが早いんだ。十三年前のやつだともう古くなりすぎてる。これはたぶん、一、二年前のモデルだ」

「確かめてもらえない?」


 机まで歩んでいき、開く。

 電源を入れるとすぐに起動した。パスワードはかかっていない。床、椅子の下に電源コードがあったので、近くのコンセントに差し込んで繋ぐ。


「中には……」


 デスクトップ画面には、フォルダが三つ。

『アルバム(印刷済)』。

『アルバム(未印刷)』。

 それから、


「『家族へ』——」


「使い方は変わってないの?」

「ああ、うん。フォルダを開くとかの基本的な動作は昔も今も同じだと思う」

「スイくん、お母さんにやらせてもらえる?」

「わかった」


 退がり、母さんを事務机の椅子に座らせる。

 僕とカレンはその両脇からディスプレイを覗き込んだ。


「わう」

「おっとショコラ、お前も見たいのか」


 ひょこひょこと頭を動かしているので、抱きかかえてやる。

 大型犬サイズの図体だけど、今の僕にとっては軽い。


「はは、子犬の頃に戻ったみたいだな」

「くぅーん」


 背中を丸めて抱えられるがままに、はっはっはっはっと舌を出すショコラ。

 それでも視線はしっかり、パソコンのディスプレイを向いていた。


 母さんはタッチパッドに指を這わせ、思いのほか慣れた手付きでカーソルを操作した。そうして『家族へ』という名前のフォルダを開く。


 中には、動画ファイルがひとつ入っていた。


 部屋は静かだ。みんなが固唾かたずを飲んでいた。

 母さんが少し震える指先で、ファイルにカーソルを合わせてタッチパッドをタップする。


 サムネイルは、みんながなんとなく想像した通りのもの。

 カメラを正面にした父さんの、バストアップ。


「……顔の感じと髪の長さからして、たぶんつい最近だ」

「おじさま、幾つだったの?」

「四十一歳だったかな。向こうの感覚だと、歳にしては見かけがだいぶ若かったよ」

「ん、こっちでは魔力が充実していれば老いが遅い。きっとその分の年月」


 ああ、なるほど。

 昔からずっと「お前の親父さん、若くていいよな」なんて言われてきたっけ。


 母さんはしばらくの間、その——おそらくは記憶にあるものよりも十三年分の歳を重ねた——父さんの静止画を見詰めていたが、やがて意を決したように再生ボタンを押す。


 動画が、始まった。



※※※



すい、それからたぶんいるだろう、ヴィオレとカレンへ。これを見ているということは、僕はきっとこの世にいないんだと思う。……って、なんだか漫画みたいなセリフだね。生きた僕もそこにいたら笑い話だけど、その場合、僕は恥ずかしくて動画の再生を止めるだろうからそういう前提で始めるよ』


 僕とショコラにとってはおよそ半月ぶり、母さんとカレンにとっては十三年ぶりの、父さんの声。


『なにから話そう。……そうだな、伝えたいことはいろいろあるが、まずは翠、お前に僕のことを知ってもらうことから始めよう。お前はきっと、僕のことを……僕ら家族がどんなふうにして生まれたのかを、知らないだろうから』


 ショコラの体温が消え去ったように感じるほど、その声に聞き入る。


『まず、僕は正真正銘、地球の日本に生まれた人間だ。そんな僕がに転移したのは二十三年前……僕が十八歳、高校を卒業したばかりの頃だった。死んだ両親と一緒に住んでいた家とともにね。……そうだよ、翠。お前が今いる、この家だ。異世界の人たちは、僕の転移を「境界きょうかい融蝕ゆうしょく現象げんしょう」と呼んでいた』


 十八歳。

 奇しくも、今の僕と同じ年齢。


『僕と家が転移した先はソルクス王国の南にあるネルテップという町のはずれ、原っぱのど真ん中でね。そりゃあ大騒ぎになったもんさ。……翠も覚えているかな、ネルテップのこと。よく家族で行ってたけど、もし思い出したのなら一度、赴いてみるといい。……ただ、お前と家が今回どこに転移したのか、僕にはわからない。辺鄙へんぴなところだったら苦労するかもしれないから、物資はできるだけたくさん棚に入れておいたけど。まあ「神威しんい煮凝にこごり」でもない限りは大丈夫、なんとかなるさ。ははっ』


「……『神威の煮凝り』だったんだよなあ」

「ん、でもなんとかなった」


 僕とカレンは小声で苦笑し合う。

 父さん「ははっ」じゃないよ「ははっ」じゃ。


『まあネルテップではすごくいろいろあって、ついでに王国ともいろいろあって、その際に母さん……ヴィオレと出会った。馴れ初めは恥ずかしいからやめとこう。気になるんだったら母さんに尋いてみるといい』


「押し付けるんじゃないわよ……」


 すごく呆れた調子で母さんがつぶやいた。僕やカレンに対する態度とはまるで違う口調で、たぶんこれが母さんの、父さんに——夫に見せる顔なんだろう。


『僕らは出会って、一緒に冒険者として活動を始めた。大活躍だったんだ、本当だぞ? ……で、その過程で親を失ったクー・シーの子犬を拾い、エルフの友人から赤ん坊を託された。ショコラとカレンだ』


 名を呼ばれたショコラが、なにかにこいねがうように「くーん」と鳴く。


 きっとわかっているのだろう。これが映像で、かつての主人はもうこの世にいないことを。その面影にじゃれつくことは、もうできないのだと。


『父さんと母さんは一緒に冒険しているうちに、お互いを好きになって、結婚した。やがてお前が生まれた。ヴィオレにショコラ、カレン、そして翠。僕は異世界で、妻にペット、娘と息子——家庭を持ったんだ』


 カメラに向かって話す父さんの顔はとても穏やかで、どこまでも優しい。

 僕やショコラだけじゃなく、あっちの世界にいなかったふたりのことを大切に思っているのが伝わってくる。

 

『そこから先のことは、もう思い出したかい? お前はそっち……異世界で生まれ、ごく普通に暮らしていた。だけどのっぴきならない事情があって、僕と翠、そしてショコラは再びこっち……日本に戻ることになった』


 だが、すぐに。

 その穏やかな顔が、どこか厳粛なものに変わる。


 父さんはいったん言葉を止めて息を深くき、俯いて数秒を待った後。

 顔を上げ、カメラを——僕らをまっすぐ見て、言った。






『すまない。お前とショコラを日本に転移させたのは、僕だ。重い病にかかったお前を助けたくて……僕が融蝕現象を閉じて、家をこっちの世界に戻した』

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