ただいま、父さん

懐かしさの中にある

 しばらくの間、抱き締めあっていた。


 母さんの力は強くて、たぶんそれは感情の強さなんだろう。僕は子供——五歳よりも前に戻ったみたいな気持ちで、ひとときは照れを忘れて母さんの体温に身を任せていた。十八にもなってみっともない、なんて思わなかった。だって母さんはきっと、ずっと——十三年間、僕をこうして抱き締めることを夢見てきたのだろうから。


「そうだ、いろいろ持ってきたのよ。庭に置いてあるわ」


 やがて身体を離し、母さんは門の中へ視線を向ける。果たして庭先には、これ担いできたの? と呆気に取られるサイズのリュックが置いてあった。


 背嚢はいのう、というのだろうか。デザインがいかにも異世界って感じだ。


「カレンから、差し当たって足りてないものを聞いてたからね。あとで一緒に確認しましょう」

「母さん、疲れてない? 大丈夫?」


 確か『五日くらいで着く』って聞いてたけど、今日はまだ四日めだ。カレンと同じようにきっとすごく急いでくれたのだろう。ただカレンが荷物を捨ててきたのに対し、こちらはあんな大荷物を背負って。


 だからきっとカレン以上に疲れているはずだ——あっちは着くなり眠りこけ、まる一日眠っていた訳だし。


 だが、母さんは僕に微笑んだ。


「平気よ。このくらい、なんてことないわ」


 カレンがそばにきて、そっと耳打ちする。


「スイ、だいじょぶ。母は強い。ヴィオレさまも強い。ふたつが合体してすごく強い。……私なんかはまだまだ」

「そっか……わかった」


 ただ『まずは休む』っていうんじゃないんなら。


「母さん、あの……父さんのことなんだけど」


 ——この話だけは最初にしておかなければならない。


 父さんが死んだことを、母さんは既に知らされている。カレンがここに着いた日の翌日、通信水晶クリスタルで連絡したそうだ。この連絡があり、母さんの到着は予定より少しだけ遅くなったらしい。


 母さんはきっと悲しんだだろうな。僕になにか言えること、できることがあるのかな。そんなことを思いながら顔をうかがうと、やっぱり母さんは微笑み、


「ええ、聞いているわ。……スイくん、たくさんのものを背負わせてしまってごめんね」


 僕を抱き締める。


「……っ」


 自分のことではなくて、僕のことを案じて。


 ああ、父さんと同じだ。

 自分よりも僕を優先してくれる——この人はやっぱり、僕の親なんだな。

 

 母さんは僕の頭を撫でながら、玄関へと促した。


「ねえスイくん、家の中、案内してくれる? 十三年ぶりの我が家だもの……いろいろ、見て回りたいわ」



 ※※※



 玄関を開け、空っぽの花瓶を見て母さんが言う。


「この花瓶ね、スイくんとカレンが育てた花を飾ってたのよ。いたずらで畑に種を植えて、野菜に混じって咲いちゃってね」


 カレンは「そういえばそうだった」と恥ずかしそうにつぶやいた。僕も確かに、いたずらのつもりだったのに叱られずに花瓶を彩ることになったのが、嬉しいようなむずがゆいような気持ちになったなと思い出す。



 居間の風景を見て、母さんは少し息を呑んだ。


「あの頃から、ほとんど変わってない……」

「……ソファーとかカーテンとかテーブルとか、たぶん当時と同じものだと思う。僕も記憶がある。少し古くは感じるけど、そうそうダメになっちゃうものじゃないから」

「あのカーテン、覚えてる? スイくんとカレンがかくれんぼしてたの。カレン、足が出てるのに隠れられてると思ってて。スイくんがすぐに見付けて……」

「ヴィオレさま、それ以上はだめ。私の恥ずかしい過去。今ならもっと上手く隠れる」

「わうっ!」

「そうだな。どんなに上手く隠れても、お前の鼻があれば一発だ」

「むー。ショコラに頼るのはずるい」


 僕らが笑い合う横で、顔をそむけて目もとを拭う母さんの姿が視界の端に入った。僕は気付いていないふりをした。

 ……こちらを向いた時にはもう、微笑みを浮かべていたから。



 居間、キッチンカウンターについた傷を撫でながら母さんが懐かしそうに言う。


「これ、お母さんが料理しようとしてね、魔術を使ったら勢いがつきすぎちゃって。私は結局、料理が上手くならなかった。あなたにも、ろくな手料理を食べさせてあげられなかったわ。ごめんね」

「僕が作れるようになったから大丈夫。父さんも料理なんてちっともできなかったし……だから我が家では、僕が調理担当だよ」

「すごい! 楽しみにしてるわ」


 申し訳なさそうな、ちょっと悔しそうな、けれどそれ以上に嬉しそうな顔をしてくれた。



 台所の棚を開けて、ぎっしりと詰まったペットボトルの水や缶詰、レトルト食品に母さんは驚く。


「これ、あの人……お父さんが?」

「うん。こっちに来た時のために備えてくれてたんだと思う」

「スイくんはもう『食糧庫ストック』は使えるの?」

「一応。使えることに気付いたの、つい昨日の話なんだけど」

「よかった。ここには昔、ほとんどなにも入ってなかったの。でも缶詰が少しだけあってね。サバ……だったかしら、お魚の。うっかりなくならないようにおそるおそる、少しずつ大切に食べていたわ」


 その時の経験があったから、父さんはいろんなものを入れたんだろう。



 洗面所。

 洗濯機の置かれた脱衣所や、お風呂場に置かれたシャンプーなんかを見て、母さんは喜びの声をあげながらボトルを抱える。


「これこれ! 髪のつやと手触りがもう全然違うのよ! ……あれ、こっちのボトルはなに? シャンプーとリンス、ボディーソープはわかるけど」

「トリートメントだよ。リンスも正確には、コンディショナーっていうんだ。トリートメントは髪の毛を内部からケアするやつで」

「私の知らないやつだわ!」

「ヴィオレさま、それかなりすごい。私の髪、見て」

「気になってたのよ、カレンの髪の毛! ……十三年であっちの世界も進化したのねえ」


 それはたぶん、十三年の進化ではない。

 だってトリートメントなんて向こうの家には置いていなかった。そもそもシャンプーからリンスからなにから、あっちで使っていたものではなくて——すべて、女性向けの製品で統一されてある。


 だからこれらは父さんが、母さんやカレンのために用意したのだと思う。僕だけじゃなく、ふたりに喜んでもらうために。


「全部、棚の中に予備があるから使ってもなくならないよ。歯ブラシとかも」

「素敵、最高だわ!」

「ん。それにショコラ用のシャンプーもある。すべて完璧」

「わう……」


 シャンプーという単語を聞くと露骨にテンションの下がるショコラを撫でつつ、僕は父さんの気遣いを黙っておくことにした。そういうのを話すのはきっと、もっとずっと後、いろいろなものが癒えてからでいい。



 家電製品の数々にも、母さんはテンションを上げていた。

 こちらはシャンプーなんかと違い、前にあったものよりも確実に進化している。


「洗濯したあと、そのまま服を乾燥してくれるの? すごいわねえ……冷蔵庫もだけど、また機能をいろいろ覚えなおさないといけないわ」

「ボタンとスイッチひとつで勝手にやってくれるから、洗剤の入れ方だけ間違えなきゃ大丈夫。でも壊れると怖いから、しばらくは僕と一緒にやろうね」

「嬉しい、ありがとうね、スイくん。前の洗濯機とは形が全然違うから、触るのがちょっと怖いわ」


 確か洗濯は母さんがしていた、そんな記憶がある。母さんが庭にシーツを干す中、僕とカレン、子犬だったショコラは走り回った。シーツにぶち当たるのが面白くて、せっかく洗濯したのにと母さんが叱ってきて——ああ、今まで思い出せなかっただけで、僕にも母さんとの思い出はたくさんあったんだ。



 そうして。

 一階をひと通り見て回り、懐かしい風景に感じ入ったり新しい風景に驚いたりなどし、次は二階かな、と僕が思っていると。


 母さんはまさに僕の思考を読んだかのように上を指差し。


「ところでスイくん、二階なんだけど……開かない部屋があったりしなかった?」

「うん、あった。鍵がかかってた。壊すのはさすがにと思って後回しにしてたんだけど……もしかして」

「やっぱり」


 いたずらっぽく笑い、首にかかっていた紐を手繰って、胸元から光るものを取り出す。


「ここにその鍵があります。あそこはお父さんとお母さんが使っていた部屋なの。今からちょっと見てみましょう? たぶん、と思うから」

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