僕は少しだけ思い出す

「母親は失踪した、ってことになってた」


 だからこれから先、会うこともないのだろうなと思っていた。

 なのに母はで健在で、それどころかこっち出身の異世界人で、今は僕に会うため家に向かっている——。

 

 知らされた事実に驚天動地きょうてんどうちである。だけど心のどこかで納得もしてしまった。そもそもの話、カレンと僕の関係からしておかしいのだ。


 僕(とショコラ)はこの家ごと異世界に転移した。それは間違いない。なのに、この世界の住人であるカレンが僕の古い知り合いである。


 これはいったいどういうことなのか。


 過去、僕になにがあったのか。カレンと僕はどうやって知り合ったのか。父と母の間になにがあったのか。

 思い出そうとしても思い出せない。


 これまで——異世界に来てから何度か、なにかを思い出しそうになったことがあったのに。その記憶の欠片を再び喚びだすことが、どうしてもできない。


「無理はしなくていい」


 カレンが僕の隣に移動してくる。


「さっきも言ったけど、記憶は自然に戻ってくるはず。沼の底に沈んでいるものを無理に探そうとして潜っても、溺れてしまうだけ。浮かんでくるのをゆっくり待っていればいい。浮かんできたら釣り上げればそれで大丈夫」

「そう……なのかな」

「ん。必要なのは落ち着くこと。あとはきっかけ。私と会って、スイは少し思い出した。ヴィオレさまに会えばもっと思い出す」

「でも、本当に少しだけだ。僕はきみのことをまだ、ほとんどわかってない」


「だいじょぶ。魔導器官まどうきかん位相蘇生いそうそせいしつつあるのは間違いない。だったら自己封印もいずれ解ける」

「その、まどうきかん、っていうのはなに? いそうそせい、って?」


 さっきは知らない単語があまりにも羅列されすぎたのでつっこむ余裕がなかったけど、今度は数がふたつだけだし、尋いてみてもいいだろう。


「魔導器官は魔術を行使するための不可視臓器。こちらの世界の生物はみんな持ってるもの。スイのそれは、位相を戻して蘇生している最中。……あと、もちろんショコラも同じ」

「わう?」


 僕の代わりに疑問の鳴き声をあげたショコラを撫でながら、


「つまり、スイとショコラは今、魔導に目覚めつつある最中」

「魔導……魔術に?」


 カレンはそう言った。


「ん。変異種を倒せたのが証拠」

「……魔術には、どんなものがあるの?」

「ここに来てから、スイの周りで起きた、スイにとっての不思議なことは、たぶんすべて魔術。どんなことがあった?」


 思い返すように、ひとつずつ挙げていく。


「ショコラも僕も、身体能力がすごく上がった。ショコラはドラゴンの首をすぱーんってやったし、僕も筋力とか瞬発力が上がってる」

「それは身体強化。魔力が身体に巡っていれば無意識に発現する。意識して練習すれば、強化率をすごく高めることもできる」


「あと、ギリくまさん……ああいや、あの熊みたいな化け物を倒す時、剣に黒いもやみたいなのが発生した。あれをひっつけたら、化け物の動きがすごく鈍くなった。ショコラもジャンプして、びかーって光って、ずどーんって」

「それは属性魔術。人にはそれぞれ固有の魔力色まりょくしょくがあって、魔術にはその色に準拠した属性が付与される。魔力色は、瞳によく現れる」


 瞳——僕はごく普通の日本人だけども。


「スイの属性は闇で、ショコラの属性は光」

「やみ……闇なの? ダークネスの闇?」

「ん。生来の闇属性は希少。属性を重ね尽くすと闇に行き着くから、魔導の極致だと言われている」

「それって、すごいの?」

「すごくすごい」

「すごくすごいのかあ」


 ……まあ、呪われし力とか邪悪の証とかそういうのじゃなくて安心した。


「じゃあショコラの光は?」

「光は単一にして無。万物を輝き照らすしるべ、魔力の始原にして魔導の根幹。これは人間には持ち得ないもの。ショコラもすごくすごい」

「わうっ!」


 主人が闇で犬が光……普通こう、逆じゃない?

 光の勇者が闇の番犬を従える、みたいな……。


「くぅーん?」

「まあでも納得だよ。うちの犬はえらいもんな!」

「わんっ!」


 わしゃわしゃと撫で回す。

 実際、ショコラは光だよ。僕にとっての——お前がいたから、僕は父さんの死を乗り切れたし、異世界でも途方に暮れずに済んだ。


「スイ、他に起きた不思議なことは?」

「あ、そういえばあれだ。大事なことを忘れてた。結界だ」

「結界?」

「うん、家の周りに結界があるみたいでさ。なんか、外からの攻撃を防いでくれるんだよね。ドラゴンが突進してきた時も、熊の化け物がいろいろしてきた時も、全部ばきーんって弾いてくれて。異世界転移して、家にもなにか不思議な力が備わったのかな?」


 僕の推測を告げると、カレンは何故か黙り込んだ。

 少し考えるそぶりを見せ、何秒かの後、


「ん。……それは……わかった。今はその認識でだいじょぶ」


 そんな奇妙なことを言った。


「どういうこと? 違うの?」

「大まかには違ってる訳じゃない。だけど、正確には違う。そんな感じ。詳しいことはヴィオレさまが来てからの方がいい。私が今これを説明してしまうのは、沼に潜るのと同じになる。溺れてしまう」


「さっきのたとえ話か。無理に詰め込むとよくない、ってこと?」

「ん。ごめんね、もやもやする?」

「いや、もやもやは確かにするし気にもなるけど……『今はその認識で大丈夫』って、さっきカレンは言ったよね? だったらそれでいいかなって」


 実際、カレンのことは信頼している。


 異世界に来て、いろいろ訳がわからなくて、それでもなんとかなって——けれどこの数日がなんとかなったからといって、この先も同じであるかはわからなくて。


 そんな中、カレンが来てくれた。

 マントもぼろぼろ、髪も乱れて、泥で汚れて——そんなになってまで、僕らを探して来てくれたのだ。そんな彼女が「今はまだ」と言うのであれば、僕に否やはない。


「僕がなんとなく昔のことを思い出せたのも、カレンのおかげだしね」

「なるほど。じゃあ、またキスする?」

「急に! なんでそうなるの!?」


 隣に座っていたカレンが更にずずっと身体を寄せてきた。身体はほぼ密着している。実質もう抱擁ほうようでは?


「スイは私とキスするのは嫌?」

「嫌とかではないです、でもですね、その、僕はまだきみのことをよく思い出せてませんし、なのにそういう行為はあなたに失礼だなって。あ! ひょっとして異世界ではキスって挨拶とかだったりするの?」

「しない。唇と唇を合わせるのは恋人が愛を示す行為」

「文化は同じで安心した!」


 カレンが顔を近付けてくる。

 吐息が鼻先に触れる。温かい。

 やばい。どきどきしてどうにかなりそうだ。


「だいじょぶ。昔はいつもキスしてたから」

「え、マジで?」

「まじ。一日五回くらいしてた」

「過去の僕はなんなの? 五歳とかだよね? マセガキすぎない?」

「だから、キスしたらなにか思い出すかも。ね?」


 そう言って迫ってくるカレンの顔——微笑みの中、唇の端がほんの少しだけぴくぴくするのを見て、僕は不意にはっとした。


「……嘘だ。さすがに子供の頃、そんなことしてなかった」

「どうしてわかるの?」

「唇がちょっとぴくぴくするの、カレンがいたずらする時のくせだから」


 居間の壁、左奥の隅。

 そこに、少し目立つ汚れがある。


 あれは僕とカレンがクレヨンで落書きしようとした、未遂の跡だ。

 発案はカレンで、ヒビ割れを描いてびっくりさせよう、って。それを僕にこっそり話す時の彼女は、今と同じように唇の端っこをぴくぴくさせていて——結局、父さんに見付かって叱られたんだったっけ。


 子供の頃の僕らは、そういう他愛ないいたずらをよく企んでいた。父さんと■さんの■室にびっくり箱を置いたり、庭の畑にこっそり花の種を植えたり。その度にカレンの唇は、端っこがぴくぴくしていた。


 それを指摘されて、カレンは。

 一瞬だけ目を見開き、感極まったような顔になって、


「……んむ」


 僕の唇を、そのまま奪った。


「わあああ!?」


 咄嗟に彼女の肩を掴んで引き離すがもう遅い。いや本当、嫌じゃないんですよ、むしろこんな可愛い子に迫られたらそりゃ嬉しいですよ? でもやっぱりまだそういう関係になっていないのにこれはよくないと思う訳で!


「確かに、子供の頃のことは嘘。一日五回もキスしてたのは私たちじゃない」

「やっぱり嘘じゃないか! よかった僕がマセガキじゃなくて」


「でも、キスすると思い出すのは本当」

「え?」


 動揺する僕にカレンは続けた。


「私のくせ。家族しか知らない、他人は気付いていない癖」


 今度はいたずらではない本物の、嬉しそうな笑顔を浮かべて——。




「ね? 私のことひとつ、思い出してくれた」

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