居間の電気はつかないままに

 よほど疲れていたのか、彼女が起きてきたのはまるいち日後。

 次の日の朝だった。


 僕が居間のソファで寝ていると、階段を降りてくる足音がする。僕もそれで目を覚まし、身を起こした。伸びをしつつ出迎える。


 ガラス戸が開き、彼女——カレンが、入ってきた。


「おはよう。……って、お前も一緒だったのか」

「わう!」


 カレンの足元にショコラが寄り添っている。昨日の夜、僕が眠った後は寝室のドアの前にいたようだ。


 カレンが僕へこくりと頷きつつ、しゃがみ込む。


「おはよう。……ショコラ、おっきくなった」

「わうっ!」


 そしてそのまま、わしゃわしゃわしゃ。


「よしよしよしよしよしよし」

「くぅーん。きゅー……」

「っ……お前……お腹まで見せて……!」


 ショコラは満足げに仰向けとなり、撫でられるに任せている。完全に堕ちていた。僕や父さんの前でも滅多に見せないトロ顔だった。


 ただ、僕はもうそのことを不思議には思わない。

 ショコラが彼女に懐いているというのは、つまりそういうことなのだ。


 昨日、このを寝室に運んでからまるいち日。

 考え、思考の整理をする時間はじっくりあった。


「あのさ、カレンさん……で、いいんだよね」

「カレン」

「うん、カレンさん」

「違う。カレン」

「だからカレンさ……」

「カレン」

「かれん」

「ん。カレン」


 呼び捨てが正しいらしい。いや女の子を呼び捨てにするのハードルが高いぞ……。でもきっと、はそうしていたのだろう。


 そして——どうやら彼女にとって僕の存在は、再会と同時にキスしてくるまでに大きいようで。そこから目を背けるような真似を、してはいけないと思う。


 立って掃き出し窓のカーテンを開けた。


「お腹空いてるでしょ? 缶詰とかしかないけど……ショコラの朝ご飯も出さなきゃいけないし、一緒に食べよう」


 まずはお腹を満たしてから、始めようじゃないか。



 ※※※



 カレンは寡黙にもぐもぐと食べるタイプで、なんだか可愛らしかった。けれどやはりよほど空腹だったのだろう、目の前のものがなくなるとじっと僕を見て、僕が「まだいる?」と問うと「ん」と頷き、おかわりを差し出すと再び寡黙にもぐもぐと食べ——缶詰を七つとレトルトのおかゆを三パック、それから二リットルのペットボトルをまるっと空っぽにすると、ようやく箸を置いた。


 すごかった。でもまあ、人心地ひとごこちついたようでよかった。


 食後のお茶を淹れつつ(戸棚に茶葉があった)、僕は改めてテーブルを挟んでカレンに向き直る——L字のソファーだから正確には斜めにだけど。


「えっと、まずは謝らなきゃいけないことがあるんだ」


 お茶をひとくち飲んでから、僕は切り出した。


「実は昨日まで、僕はきみのことを覚えてなかった。今も、断片的にしか思い出せない……カレンって名前とか、子供の頃に話したことがあるっぽいことはわかったんだけど、実際はまだほとんどのことが……ごめんなさい」


「ん。スイの状況はわかった。こっちからも幾つか質問させて」


 カレンは驚くでもショックを受けるでもなくこくりと頷く。その顔と口ぶりから、ある程度この状況を予想をしていたことがうかがえる。


 ただ続いた彼女からの問いは、僕の意表をついた。


「家。?」


「え……だってそりゃ、ここ、僕からしてみれば異世界だし」

「異世界だから電気はつかない。スイはそう考えてる?」

「うん……ってかそれ以外になにが」


 というかこの娘、電気の存在を知ってるの?


「水道はちゃんと繋がっている。だったら、……と同じ魔術を行使しているはず。なのに電気がつかない……」

「えっと、カレン?」


「ん……ごめんなさい。次の質問。スイは五歳より前の記憶、どのくらいある?」

「五歳、って。小学校に入学するより前……か」

「全部覚えてる? なにも覚えてない? それとも——」


 と。

 ひと呼吸置いて、


「——私に言われるまで、?」

「……っ!」


 カレンは、僕の核心を突いた。


 そうだ。

 まさに彼女の言う通りだった。


 小学校入学以前、僕はどんな暮らしをしていたのか。どんな人と遊んで、どんなふうに毎日を過ごしていたのか。


 考えてみれば、覚えていない。

 いや——覚えていないことに、意識が向かなかった。


「うそだろ。そんなこと……あるのか」


 僕はぞくりとする。

 今までなんの違和感もなく過ごしてきた。ごくごく普通に生きていたと思っていた。五歳以前の記憶が自分にないことなんて、考えたこともなかった。


「スイの状態は推察できた。おそらく、記憶の自己封印。融蝕ゆうしょく現象げんしょうの消失に伴い体内の魔導器官まどうきかん位相喪失いそうそうしつ。その余波でまだ幼いスイは、無意識で自分に辻褄つじつま合わせを行った。『修正リペイント』も働いているかもしれない」


「いやごめん単語の八割以上がわからない」


 ゆうしょくげんしょう?

 まどうきかん?

 りぺいんと?


「だいじょぶ。要約すると、スイの記憶はこれから少しずつ甦る。今は位相蘇生いそうそせいした魔導器官が馴染んでいる最中だと思う。直近で優先的に必要だと身体が判断した分の魔術は、既に稼働させているみたいだから」


「魔術……僕が?」


「ん。家の水道とか。『食糧庫ストック』は……まだ? 私は見てないけど、変異種を倒した力は確実にそれ。観測する限り、魔眼はもう馴染んでるし体内魔力循環も安定してる。よかった」


 カレンは僕へと身を寄せ、頭を撫でてきた。


「スイはがんばった。えらい。よしよし」


 その優しい手付きにを覚える——ああ、僕は子供の頃、五歳よりも前。彼女にこうして撫でられたことがある——浮かんできた記憶はしっかりと心が握って、もう霧散することはない。


「わう!」

「ん、ショコラもがんばった。よしよし。……スイをずっと守っててくれたんだね。さすがはクー・シー」


 カレンの膝に頭を乗せて「ぼくもぼくも」と撫で撫でをねだるショコラ。そして空いた片方の手でショコラも褒めるカレン。


『くーしー』ってなんだろうと思いつつ、まあショコラがずっと僕を守ってきてくれたことは、間違いない。


 ひとしきり僕とショコラを撫でまわした後、カレンは向き直る。

 気配を引き締め、姿勢をただし、どこか張り詰めた面持ちで、彼女は再び問うてきた。


「スイ、もういっこ」

「あ、うん」


「おじさま……カズテルは、一緒じゃないの?」


 カズテル。

 波多野はたの和輝かずてる


「それ、は……」


 僕の父さんの——名前だ。


 話すのを逡巡しゅんじゅんしてしまったのは、彼女の表情。

 その顔を見て、わかってしまった。


 カレンは父さんのことも知っていて、きっと会ったことがあって。

 そして、大切に思ってくれているということを。


 どう話せばいいのか、どんな顔で話せばいいのか。

 そもそも僕が耐えられるのか。

 少しの間、息を整え——迷った結果、できるだけ短く簡潔に話すことにした。


「父さんのことだよね。実は……」


 事故に遭って、亡くなったこと。

 遺品を整理していたら、この家の存在が判明したこと。

 ショコラと様子を見にきたこと。

 そしたら家と庭と畑ごと、異世界転移したこと——。


 説明しながら声が詰まった。異世界に来てからがあまりに目まぐるしすぎたけど、父さんが死んでからまだ十日くらいしか経っていないんだ。


 ——すべてを話し終える。


 僕が口を閉じても、カレンはなにも言わなかった。


 最初に「事故に遭った」と告げたその時に、大きく目を見開いて——以降はじっと僕の目を見つめながら、僕の声を聞いていた。


 そして今、その視線はうつむきテーブルに落とされ、両膝の上でぎゅっと握った拳は少し震えていて。


 どれくらいそうしていただろう。

 テーブルの上に透明な雫がひとつ、ふたつ。


「カレン、その」

「だい……じょ、ぶ。一番つらかったのは、スイ」

「でも、きっときみも……」

「今はまだ、泣いてる場合じゃない」

「くーん」

「ショコラもありがとう。お前もつらかったね」


 膝元から見上げてくるショコラにカレンは身を屈め、一瞬だけしがみつくと、姿勢をただして顔をあげた。


「おじさまのことをいたむのは、家族全員でじゃないとだめ。ヴィオレさまが来てからにしよう」

「そっか……わかった」


 と僕は返事をして、直後、


「……ん?」


 カレンの言葉の意味がよくわからなかったことに気付く。


「いま、なんて?」

「家族全員でじゃないとだめだって言った。安心して、ヴィオレさまもすぐ……」

「いやそのあと。というかそこ、いまのところ! 家族全員、ってどういうこと? その、ヴィオレ、って人、誰?」




 僕の困惑した声に、カレンはきょとんとして首を傾げる。

 そして、なに言ってんだみたいな顔をしたまま——言った。


「あなたのお母さんだけど」

「僕の母親、異世界人だったの!?」

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