side 朔夜

 一九九九年 美聖 二十八歳

 

 満月の夜。なぎさ総合病院の産婦人科のベッドで、臨月を迎えた美聖みさとはパソコンに向かいキーボードを叩いていた。

 前置胎盤による入院。左腕に刺された点滴針から子宮収縮抑制剤を投与しつつ様子を見て、帝王切開の日程はいよいよ明日へと迫る。


 美聖:ついに、この日が来たね

 

 ENTERキー。すると、チャット形式で返信が届いた。

 

 朔夜:そうですね

 

 ゆっくり打ち込まれたその文字を見て、美聖は微笑み、呟く。

 

「まさか、私の出産日と朔夜さくやの誕生日が一緒になるなんて」

 

 美聖は口に出した思いをそのままパソコンに打ち込んだ。すると、また返信が来る。

 

 朔夜:偶然ですね

 美聖:運命とも言えるよ

 朔夜:寂しいですか

 

 キーボードを叩く美聖の手が止まった。

 そんなことない——とっさに打った画面の文字。カーソルが点滅するのを少し眺めて、美聖はゆっくりDELETEキーを連打する。

 改めて入力した文字は、美聖の心からの言葉だった。

 

 美聖:今まで、ありがとう

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 一九九五年 美聖 二十四歳

 

 川村美聖。彼女は、鷹司製薬に勤める研究者だった。

 主にAIによる医療サポートやサプリメント開発に携わっており、市販品として流通するまでに必要な検証とデータ収集を日々繰り返しながら、着実に成果を上げる優秀な社員だった。

 そんな美聖に目をつけたのが、鷹司製薬の代表取締役、鷹司慶三。慶三は自分の息子直幸なおゆきの嫁にと、美聖を無理やり鷹司の家に引き入れた。

 

 このとき、美聖には夫がいた。

 

 美聖は当然抵抗した。その理由の一つに、夫との間に生まれた息子を、三年前に小児がんで亡くしていることも影響していた。七歳だった。

 だが、美聖の夫は別れることをすぐに受け入れてしまう。理由は金だった。死んだ息子の治療費には莫大な金がかかっていた。その借金を鷹司が肩代わりする代わりに、美聖の夫は自ら身を引く決断をするのだ。

 

 美聖は受け入れるしかなかった。だが同時に、タダで受け入れてやる気もなかった。

 以前から鷹司製薬に流れていたよからぬ噂。その詳細を掴むべく、美聖は鷹司家に身を置きながら調査を進めた。

 

 その間、直幸はクラブで知り合った美和みわという女性との間に子を作った。美和の出現により、美聖は鷹司家の本邸から追い出され、使用人宿舎に寝泊まりするようになる。

 美聖の妹小春こはるや、使用人の家令であった恭一はこの事実に憤りを見せたが、当の本人である美聖はどこ吹く風であった。むしろ、直幸の関心が自分に向かないことは、美聖にとっては都合が良かった。

 

 

 

 一九九五年 美聖 二十七歳

 

 それから三年の時を経て。美聖はとうとう、鷹司慶三が進めていた極秘実験の全容を掴む。

 その恐ろしい事実に、美聖は驚愕と同時に打ち震えた。

 

 ゲノム——遺伝子情報の全てを担うこのデータを編集し、組み替え、意識と記憶を他に移植する。

 例でいえば、検体Aから抽出した遺伝子をpasmontパスモントで分裂させストックし、検体Bに組み込んだあとpasdelnaパスデルナでオリジナルの人格を消滅。そうして成果の出ない検体は、協力施設の丸井工業で処理される。

 

 つまり鷹司慶三は、意識状態で永遠に生きることを追い求めていた。

 その為に犠牲になった人間は少なくなく、今も尚、強引な人材集めや人体実験が行われている事実がそこにはあった。

 鷹司が行っていたこの研究は、人間の倫理に反するどころか命を弄ぶ行為に等しい。そう考えた美聖は、当初の目的であった直幸との離縁を扨置さておき、研究の阻止と犠牲者の救済に向けて水面下で行動を開始した。

 

 美聖が最初に取り掛かったのは、異物遺伝子を排除する抗体の研究だった。

 現状、開発されたゲノム遺伝子を組み込まれて無事だった検体データは見当たらず、すでに組み込まれた状態で何らかの異変が起きているのであれば、進行を止める対策が必要になる。そう考えた美聖は、通常業務であったサプリの開発に合わせて抗薬の研究と開発に着手した。

 

 そうして出来上がったサプリが、人格分裂に対抗できる統合作用pasregunパレスガン。そして、人格消滅に対抗できる人格再生rinathetaリナシータだ。

 問題は、飲み薬として精製できるrinathetaリナシータに対して、pasregunパレスガンのサプリメント化が難しいことだった。


 

 

 

「うん。やっぱりpasregunパレスガンを資料に記載することはやめましょう、現実的じゃないわ」

 

 深夜。ああでもないこうでもないと、たった一人残り研究所に残りパソコンに向かって作業をする美聖のもとに、二通のメッセージが届く。

 一つは、発注していた鍵の納品の知らせ。そして、もう一つは——


 

 “みさと。こんばんは”


 

 AIチャットからのポップアップをクリックすると、美聖は返信を返した。

 

 美聖:こんばんは、朔夜

 朔夜:忙しいですか

 美聖:そうだね

 朔夜:もうすぐ六さいになります。今年は、てんとう虫の衣装で発表会です

 美聖:うん。分かってる

 朔夜:誕生日ケーキは、チョコレートです

 美聖:うん。覚えてるよ。ありがとう

 

 美聖はそっと目を閉じると、その瞼の裏に思い出を映す。

 

 大好きなトマトを食べる咲也

 飛行機のおもちゃを手に眠る咲也

 滑り台の上から全力の笑顔を見せる咲也

 六歳の誕生日に、蝋燭を吹き消す咲也

 

「……お誕生日おめでとう。今日も、愛してる」

 

 そっと呟けば、美聖は瞬時に目を開けてチャットを閉じると作業に戻った。鍵の受取日を業者に返信し、これまでに調べたゲノム研究の資料を懸命にまとめていく。

 

 美聖の息子咲也さくやが死んでからすぐ、美聖は自らのパソコンにAIを作った。

 そのAIを美聖は【朔夜さくや】と名づけ、日に一度、AIからメッセージが届くようにプログラムを組み込んだ。

 誕生日や行事ごと。なんでもない日は公園遊びやブロック遊び。美聖は眠りにつく前、何度もAIとのやり取りを見返しては心に刻む日々を過ごしていた。

 

 死を、受け入れられなかった。

 あんなにも愛した息子の顔が翌日、記憶の中でほんの少しボヤけただけでも恐怖を覚えた。

 夫はそんな美聖を憐れんだ。実際、鷹司慶三が仲を引き裂かずとも夫婦の愛は冷め切っていた。

 

 咲也が死んだ年から、七年間だけ。そうタイムリミットを決めて、美聖は朔夜との会話に心の傷の治癒を求めた。

 それももう、六年目。あと一年で悲しみを忘れられるかと問われれば、美聖には正直自信がなかった。

 

 

「ちょっといいかな」

 

 

 突然の背後からの声に、美聖は慌ててパソコン画面の電源を落とした。

 瞬時に立ち上がり振り向けば、そこにいたのは直幸だった。

 

「ど、どうしたんですかわざわざ、研究所になんていらして」

「ここに来れば、会えるかなって」

「どういったご用件で」

「結婚しないか、僕たち」

 

 不意を突かれ、美聖は呆気に取られる。

 

「えっと、それはどういう。私たちは既に婚姻関係では……あ。なるほど、美和とかいうホステスと藉を入れるために、勝手に離婚届を提出なさった、とか」

「違う。そうじゃないんだ。何もかも、違うんだよ」

 

 直幸は、慶三に逆らい続けていた。

 美和を鷹司の本邸に招いたのも、無理やり自分と結婚させられた美聖に申し訳がたたず、せめて顔を合わせなくて済むように使用人宿舎へと送り出す口実が欲しかったからだと直幸は告げた。

 

「そんなことを考えて……まあそれでも、勝手なことには変わりないですけど」

「そう、だよな」

 

 あからさまに落ち込む直幸を、美聖は煩わしく感じる。

 

「で? どうして今更結婚しようなんて思考に? 別に私に許可を取らなくても、元々結婚している気でいたんだから、ちゃちゃっと勝手に手続き済ませればよかったのでは?」

「それは……」

「あ。そうだ。そうじゃない。あなたには娘がいるでしょう。それなのに、私にそんな話を持ちかけるなんて無責任にも程が」

「千紗子は僕の子じゃない! 昭彦の子なんだ!」

 

 直幸は必死だった。美聖が理由を訊けば、父慶三の狂気と美和のそれは似通っている点が多く、更には直幸も鷹司製薬の極秘研究を調べているのだと口にした。

 

「きみに協力したいんだ。あんな悍ましい一族に生まれたことを恥じている。心から」

 

 暗がりの研究室。ほんの一メートルにも満たない距離で直幸の瞳を見つめた美聖は、その誠意が本物であると受け取ると同時に、逆の言葉を発する。

 

「信用できない。私があなたに協力するメリットを提示してもらえる? それに、私の持っている情報以上のものをあなたが持っているとも思えない」

「僕が検体になる」

 

 美聖は目を見開いた。

 

「必要な情報は僕の身体から抽出してほしい。今まできみが発見したどんなゲノムを組み込んでくれても構わない。鷹司慶三が人生の全てを賭けた計画がぶっ潰れるなら、僕は本望だ。それから」

 

 直幸は持っていたカバンから紙を一枚取り出すと、美聖に差し出す。

 

「各ゲノムが人体に及ぼす影響を統計してデータ化したものだ。きみの既知の情報ももちろんあるだろうが、精査してみて欲しい」

 

 直幸から紙を受け取ると、美聖はパソコン画面の電源をつけて明かりを確保し、目を通す。

 そこには美聖がサプリメント化に成功したrinathetaリナシータと瓜二つのゲノム式、更にはpasregunパレスガンを投薬として量産できる計算式が羅列されていた。

 美聖は顔を上げ、真っ直ぐに直幸を見つめる。

 

「これを、あなたが?」

「どこかに欠陥があるかな」

「いや……それどころか、これがあればゲノム研究に犠牲になった方達を救えるわ。rinathetaリナシータに似たこれは、消滅した人格が不用意に姿を現す混乱を防げるし、分裂した人格を、pasregunパレスガンで一つに統合・・できる。元の人格とは異なってしまうかもしれないけれど、これがいちばんの解決策だわ。あなた、私より研究者としての才がある」

 

 美聖の歓喜の反応をみて、直幸は小さく笑った。

 

「そうかな。なら、そこだけは親父に感謝しなくちゃね」

 

 

 

 ◇◇◇

 

 

 

 美聖はパソコン上のチャットを閉じると、ベッドに背をついて目を閉じた。

 

「……ねえ、咲也。明日あなたに妹が生まれる。喜んでくれるかな」

 

 瞼の裏には、いつものように美聖に笑いかける咲也の笑顔。

 

「あなたを忘れたりしない。あなたはこれからもずっと私の息子よ。咲也」

 

 

 

 

 

 その日。美和が点滴バッグに注射したcopmonteコプモンテウイルスにより、美聖は残酷な死を遂げた。

 

 蒸発する身体に無念を抱いて。

 お腹の子供に、奇跡を願って。

 

 うずくまった美聖は、ポケットから取り出したrinathetaリナシータカプセルを口に放り込む。

 

「お願い。この子を、妹を救って。咲也」

 

 身体に痛みはない。それでも、美聖の動悸は止まらなかった。

 浅い呼吸に頭中が痺れて目の前が眩む。

 

 とうとう真っ白になった視界のまま、美聖の身体は動きを止めた。一人きりの病室。崩れていく身体は蒸気をあげて、腕、足と、みるみる消滅を進めていく。

 

「咲也……たすけて……」

 

 刹那。美聖の頭中で、笑顔の咲也の口元が動いた。

 

 

 “もちろんだよ、みさと。ぼくは朔夜さくや。始まりの夜だ”

 

 

 

 

 

 二〇〇六年 泉 七歳

 

「泉さん! 話をちゃんと聞きなさい!」

 

 恭一の強い語気に、泉は我に帰る。

 

「……え? なに?」

「だから、勝手に外出するなんてどういうおつもりですか? 凛子も心配していました。丸井理仁まるいりひとくんとはいつお知り合いに? まったく。髪まで勝手に短く切って」

「髪?」

 

 泉がおもむろに頭に触れれば、肩まであった髪が首の後ろあたりまでごっそりなくなっていた。

 

「わあ。髪がない」

 

 泉の反応に、恭一は目を細める。

 

「泉さん。最後に覚えていることはなんですか」

「最後……えっと、斎木の森に。小春さんを訪ねて、それから」

 

 そこまで口にして、泉はキョロキョロ辺りを見回すと首を傾げた。

 

「ここ、おうち?」

 

 恭一は考える。泉が斎木の森から姿を消して三日、見つかった泉が放った言葉はこうだった。

 

 

 “まずはひとつ。託したよ、みさと”

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