side 千紗子

 九歳。小学三年生のとき、千紗子は同級生の手の甲に鉛筆を刺したことがあった。理由はたわいも無かった。互いにじゃれ合い、くすぐり合い、度が過ぎてきた頃になんとなく苛立ちを覚え、勢いのまま。

 同級生、小林陽子こばやしようこは悲鳴を叫ぶと共に泣き声をあげ、教室は騒然。生徒指導室に呼び出された千紗子と陽子、それから互いの父親が対面に向き合い、校長は額の汗をハンカチで拭っていた。

 

「治療費と、それから慰謝料。こちらで優秀な医療機関もご紹介しますので、その点はご安心を。なあに、傷も大したことはない。すぐに治りますよ」

 

 ずんぐり太った千紗子の父、夏川昭彦なつかわあきひこは、テーブルの上に重量感のある封筒を置くと、両掌を組んで静かに言った。

 隣に座る千紗子、それから陽子の順に視線を移すと、目が合ってギョッとする陽子とは裏腹に、昭彦はにっこり笑う。

 

「陽子ちゃん。千紗子はきみが大好きなようだ。これからも仲良く頼むよ」

「……はい」

「千紗子も、遊びの度を超えちゃいけない。父さんの仕事の邪魔になるようなトラブルには気をつけなさい」

「はい。わかりました」

 

 千紗子の父は満足げに頷くと、陽子の隣で背中を丸めて俯く人物に、目をやる。

 

「小林くん。娘が悪かったね。でもきみの懐が広くて安心したよ」

「は、はい。うちの娘も、少々はしゃぎ過ぎたようで」

「そうだね。どちらが悪いなんてことはない。今後とも御社とは長く付き合っていきたいと思っているんだ。変な噂は困るよ」

「勿論です、夏川先生」

 

 陽子の父は額に脂汗を滲ませ、笑う。

 

「先生方も、生徒たちの統御・・にご尽力を」

「仰る通りに」

 

 校長も担任も、笑う。

 

「では今回はこれで。千紗子、行くぞ」

「はい」

 

 生徒指導室。そこには校長と担任、それから陽子の父親と、それなりに人がいたにも関わらず、口を開き話をまとめたのは終始昭彦だった。

 

 学校を出て、昭彦は正門の前に止まっている黒塗りのセダン車に乗り込む。運転手が後部座席の扉を閉め、エンジンを掛けて車を発進させた頃には、千紗子の父はどこかへ電話を掛けていた。

 

「ああ、小瀬くん。きみの病院に患者を紹介するから、いつものように頼むよ。うん。娘は今からそちらに送る」

 

 用件を短く伝えて電話を切れば、千紗子の父は肩に手を添えて首を回す。

 

「……千紗子」

「はい」

「やるなとは言わない。今日の放課後になれば、思う存分出来たんだ。なぜ我慢できない」

「ごめんなさい。でも、もう動物・・じゃ満足できなくて」

 

 自身の右手を眺めながら、千紗子は続けた。

 

「鼠じゃ小さい。蛙はぶよぶよ。兎も烏もバタバタ鬱陶しいし、それに」

「それに?」

「今日、ヒナタを刺してみて思いました。顔がいい。あの痛みと恐怖に支配されたヒナタの顔、もう一回みたいんです」

「ヒナタ?」

「私がつけたの。陽子だから、ヒナタ。可愛いでしょう?」

「千紗子」

 

 背筋を伸ばして前だけを見る運転手は、決してバックミラーに目をやらない。

 流れる景色が速度を落とし、細い田圃道を徐行してから車を停車させると、運転手はすぐさまドアを開けて降りた。車に背を向け、後ろ手を組み、辺りを見回すように刻を潰す。

 

「ねえ、お父さん。どうして人を殺してはいけないのでしょうか。動物は良くて、どうして人はダメなのでしょう」

「動物だって、本当は殺しちゃダメなんだ」

「虫はいいの? 花は、切り刻んでも構わない?」

「やめなさい千紗子」

「どうしてダメなの? 大人になったらいいの?」

「千紗子!」

 

 怒りを含んだ低く冷たい声が、矢継ぎ早に繰り出されていた千紗子からの口撃を抑止する。

 

「……着いたぞ。行ってきなさい」

「はい。行ってきます」

 

 ガチャリ、ほんの少し開いた後部座席のドアを、運転手が慌てて引き継ぐ。

 

「いってらっしゃいませ」

 

 車から降りた千紗子に言うも、彼女は振り返ることもなく、そのまま歩みを進めた。

 

【なぎさ総合病院】

 

 その看板を通り過ぎて、奥にある建物の階段を上がっていく陽子を見届けてから、運転手は車へと戻る。そうして何も言わずにギアをドライブに入れると、サイドブレーキを外してからゆっくり発車した。

 

「なあ」

「はい社長」

「あいつをどう思う」

「どう、とは」

「可愛いか?」

「それは勿論。先生の、一人娘です」

 

 運転手は今度こそ、バックミラー越しに昭彦をみて、微笑む。しかし後部座席に座る昭彦は、ぎゅっと瞑った目頭を指で揉みながら言った。

 

「私も可愛いよ。美和に似た、あの怪物・・が」

 

 

 

 

 


 高校一年生。十六歳になった千紗子は、小中と続き、小林陽子と同じ校舎に通っていた。

 高校生になって全体の生徒数が増えたこともあり、なんとなく疎遠になり始めた千紗子と陽子。そんな時、千紗子は陽子から告白を受ける。

 

 “好きな人ができた”

 

 その言葉に千紗子は打ちひしがれた。理由はわからなかった。相手の名は水野東伍といった。千紗子の知らない男だった。

 

 単なる嫉妬か。それまで一番近しいと思っていた友人が、誰かのものになってしまう喪失感か。千紗子は胸の奥をチクチク突き刺してくる何かの正体を探ろうと、陽子のクラスをそっと覗いた。

 陽子は笑っていた。クラスメイトの輪の中で、目を細めて談笑する陽子のその表情を、千紗子は初めて見た気がした。

 

 そして同時に悟る。やはり陽子は近い将来、自分の元から去っていくのだ、と。

 

 焦燥感。いや、無念。ことの重大さに今更ながら気づいた自分の愚かさに、千紗子は頭を抱える。

 ——そして考え、答えを出した。

 

「ねえ。陽子、水野くん。二人に案内したい場所があるの」

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