第17話
「俺への食事が雑なことなんて一度もなかった。ジンさんが俺を警戒したのは初日くらいで、その後は互いに適度な距離を保ちながら、なんとかここまでやってきました。でも。ずっと不思議だった」
「不思議?」
「あなたから人を傷つけるような凶暴さを感じたことなんて、なかったから。強迫性障害? よく分からないけど、それだってこんな風に同じ空間に他人がいたら、精神的に耐えられないんじゃないかなって。ジンさんが衛生環境に過敏なら尚更、外から来た俺を受け入れられるはずがない。考えるほど、過ごす時間が長くなるほど、俺にはジンさんがこんな部屋に隔離されなければならない人間だとは思えなくて」
そこまで聴いて、ジンは思わず吹き出した。
「……東伍ってさ、物事を自分に都合よく解釈する節あるよな。前向きなのは結構だが、そこまでくるとちょっと、ウザいよ」
「東伍がここにきてから経過した時間は約二二〇時間。二ヶ月どころかまだ十日も経っていないこの短期間で、僕を知った気になっちゃって。それって本気? それともジョーク?」
二二〇時間。ジンにメスを向けられている状況よりも、東伍はその具体的な数字に狼狽える。
「て、適当なことを言わないでください。そんな時間、時計のないこの部屋でどうやって分かるって言うんですか」
「分かるんだよ。この場所に十年以上も身を置けば、東伍にだって分かるようになる。ただ、僕が把握できる時間は起きている時間だけ。一度眠りにつけば、当然どれだけ寝たかは分からない。だから最初の頃、僕は東伍にどれくらい寝ていたかを訊いていたんだ。スマホとやらの充電が切れてからは、大体で計算したけれど、そんなに誤差はないはずだよ」
「それにしたって、いくらなんでも」
まだ十日——それが何を意味するか、東伍は理解したくなかった。
「分かっただろ? 二ヶ月もここにいるなんて初めから無理だったんだ。助けは来ない。仮に誰かやって来たとしても、それが味方な可能性はほぼ無いんだ」
ジンはリモコンを床に放ると、メスを持つ手を前に突き出す。そうしてぎゅっと握り直すと、憂いを帯びた表情で笑った。
「たった数日でも、冷たい食事、冷たい水を被る生活は辛かったろう。助けを、死を、待つしかない時間は地獄だったろ? でもな。それよりも何よりも、僕はこの扉の先に続く道の方が怖いんだ。例えこの扉が開いたとしても、僕は先に進めない。僕はこの地下で生きて、そして死ぬんだ」
「だったら!」
東伍は立ち上がる。
「だったら尚更、どうして俺を殺さなかったんですか。そうする手筈だったんでしょう? なのにどうして食料を分け与えてまで、俺を生かしたんですか。あなた一人だけなら、もっと長く生きられた、そう思ってもおかしくないのに」
水分の足りてないカラカラな喉から発せられた東伍の言葉に、ジンは唾を飲み込んだ。
そうしてぽつり、呟く。
「……一緒に逃げようって、言った」
「え?」
「あの日。絶望しかない状況でも東伍は、俺を拒絶するでも、恐れるでも、軽蔑するでもなく、一緒に逃げよう……そう言った。だから僕は」
涙は出ない。それでも、鼻の奥がツンと刺激され、ジンの唇は震えた。
「あんたを、気に入ったんだ」
沈黙が二人を包んだのも束の間。ジンはメスを手にしたまま、揺れる火のついた蝋燭のひとつを掴み取る。そうしてそれを、ベッドの真ん中へと放った。
「な、なにしてるんですか!」
「悪いな東伍。どの道もう数日しか生きられない。このまま焼け死ぬのが嫌なら、僕が先にとどめを刺す。目を瞑ってろ。痛みのないうちに殺してあげるよ」
一歩ずつ近づいてくるジンの背後で、ベッドに燃え広がる炎。暗がりを一気に侵食していくオレンジ色のグラデーションが、眼球に染みる。
——それは、急な気づきだった。
霞んだ視界に映るジンの姿を見て、東伍は衝撃を受けたように思い切り目を見開く。
お尻のポケットに手を突っ込み、いつぞやの洗濯で一緒に洗われてしまってクタクタになった二つ折りの黒い財布を取り出すと、小銭の入るファスナーに手をかけた。焦る気持ちが先行して、手が震える。
「鍵なら、俺も持ってます」
財布から取り出されたのは、小ぶりの鍵。銀色で持ち手がまるく、そこには青い宝石が埋められていた。
ジンは東伍の顔と鍵とを、交互に見る。
「それがなんだよ」
「何年も前に貰ったんです。高二の夏、俺はライフセーバーの手伝いみたいなことをしていて。それでその時、溺れてた女の子を——」
“誰にも渡さないで”
腹の底から湧き出てきたその記憶は、ゴボゴボと音を立てて東伍を刺激する。
「彼女……あの時の子だ」
ひとり、なにかを分かり始めた東伍の表情を見つつ、ジンはため息をついた。
「東伍。悪いがそんな茶番に付き合ってる時間はないんだ。燃え死にたいのか?」
「ねえ、ジンさん。この鍵でもしも、扉が開いたら。俺と一緒に逃げてくれますか?」
ベッドから天井を這うようにして燃え上がる炎が、ふたりの頬に熱を移す。
いつの間にか瞳に活力を取り戻した東伍の顔に、ジンは驚きを隠せずに叫んだ。
「なんでこの状況でそんなことが言えるんだよ! その鍵じゃ開かない、僕はこの扉の鍵がどんなものか知ってるんだぞ!」
「鍵が一つとは限らないでしょう? 大丈夫、鍵が開かなくても、選択肢は増えました」
「選択肢?」
「エレベータがくるか、鍵を開ける方法を見つけるか。最悪、水はまだ止められていません。なんとかなります。ほら、火を消しますよ」
「なんでそうなるんだよ! あり得ない……なんなんだよあんた!」
混乱を極めイライラを募らせるジンに反し、東伍は冷静に流し台へと向かうと、水道の蛇口を捻る。
「ジンさん」
「なんだよ!」
「まずいです」
「ああ?!」
「水が、出ません」
流し台から振り向く東伍の顔は、青ざめていた。
「だから言ったろう! ああもう! それ貸せ!!」
「あ、ちょっと」
ジンは大股で東伍に近寄ると鍵を奪い取り、扉に向かう。
「こんなんで開くかよ! 希望なんてない! 僕はもう殺してやらないからな。このままふたりで焼け死ぬしか」
——————————カチャ
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