第16話

「さて。乾杯といこうか」

 

 ジンが水道水の張ったワイングラスを掲げる。自らの描いたキャンバスを満足げに眺めながら、グラスと共に中身の水をゆらゆら揺らした。

 その横を、シャワーを終えて着替えを済ませた東伍が通る。ジンから少し距離を取り、皿のセッティングされた床へと胡座をかいた。

 

「もう、やめましょう」

 ぼそり、東伍が言う。

 

「やめるってのは、どういう? 遂に死にたくなった?」

 

 顔を手のひらで覆う東伍。疲弊した丸まった背中を見て、ジンはグラスを床に置くと立ち上がり、部屋の中心に鎮座するベッドへと腰かけた。

 

「そうか。そうだよね。東伍が普通の人間で安心したよ。人間は弱いんだ。そうなって当たり前だよ」

 

 足を組んで、そう軽く発したジンを東伍は睨む。

 

「怖っ。そんな顔すんなって。なあ、東伍。僕たちさ、よく頑張ったと思うよ。僕が他人とこんなにも長い時間を過ごせたのは初めてなんだ。それも二人きり。正直、最初の頃は蕁麻疹が止まらなかったけど、今じゃそれもないし」

 

 ほら、と顔を上げて首元を晒すジン。それから気を抜くように深呼吸をした。

 

「白状するよ。本当はね。もうとっくの昔に東伍は死んでなきゃならなかった。というか、僕が殺す手筈だったんだ」

 

 ジンは左のてのひらを上に向け、手招きするよう滑らかに指を折る。そうして折り曲げた指を再び開けば、そこには小さなリモコン装置がのっていた。

 

「でも、僕はそうしなかった。いや。出来なかった、という方が正しい」

 

 ジンは言葉を紡ぎつつ、リモコンについたボタンを操作する。するとなにか歯車のようなものが、壁の向こうで小さくうごめく気配を東伍は感じた。

 そうしてほんの少しだけ、ダストシュートの設置された壁が手前に浮き出たのを確認すると、ジンはその隙間に手を突っ込んで手前に引いてみせる。

 その壁がサイドに寄せられ収納されると、現れたのは鍵穴が特徴的な扉だった。

 

「これって……」

「黙っていてごめんね。妙な期待をさせたくなかったんだ。確かにこの扉の向こうは外へと繋がってる。でも、扉には鍵が掛かっていてね」

 

 ジンは両手を広げてふざけた笑顔を見せると、首にかけて胸元にしまっていた紐を引っ張り出す。その先端には鍵があった。

 

「この扉はそう簡単には開かない。無理に壊せば火がついて、たちまち部屋中に散らばる蝋燭に燃え移る。そうしてこの地下室は、名実共にこの世界から消滅するって寸法さ」

「名実、共に?」

「そう。覚えてないかもしれないけど、エレベータに乗り込んでからこの場に着くまで、随分長く掛かっただろ。この地下は埋められた最深部。だから電波も届かない。この部屋が消滅しようと、外界にはなんの影響もないんだよ」

 

 ジンの言葉に、東伍は思い出す。

 確かに、エレベータ内の地下一階のボタンはカバーで隠されていた。それに思い返せば、院内図で見た【隔離室】の表記は、ビニールテープに書かれた急ごしらえだったようにも。

 視線を下げて考えていた東伍だったが、顔を上げると指を差し、ジンに訊く。

 

「じゃあ、その首の鍵が、扉の?」

「だったら良かったんだけどね。残念ながら違う。この鍵は、少し前に話した脱出を共にした少年、彼から貰ったんだ。僕のお守りみたいなものさ」


 それはどこか外国のおしゃれなアパートの鍵か、はたまた海に沈む宝箱の鍵か。緑色の宝石が光る、不思議な金色の鍵だった。

 

 その鍵をじっと見つめて、真顔な東伍。

 

 時計なんて存在しないその部屋で、秒針の刻む音が幻聴できるだけの緊迫感に包まれながら、東伍は思いもよらないことを口にする。


「ジンさんの本当の名前、教えてください」

「え?」

「兄弟はいますか? 両親はどんな人でしたか? 好きな食べ物は? 得意な教科はなんでしたか?」

「な、なんだよ急に」 

「知りたいんです、あなたのこと。さっき俺がやめようって言ったのは、諦めて絶望したって意味じゃない。ジンさんに対して言ったんです」

「僕に何を」

「もう、嘘はやめませんか。あなたはこんなところに隔離されなければならないほど、精神を壊してなんていないんでしょう?」

 

 怪訝に引いているジンをよそに、東伍は続ける。

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