第11話

 強迫性障害を患う精神疾患者、ジンは自分をそう説明した。それは特に衛生環境に過敏で、不潔や感染を最も恐れるという。

 幼い頃からこの疾患に悩まされていたジンは、自室に篭り勉学、そして美術に励んだ。

 美術に目覚めた理由も、絵の具や薬品塗料などで汚れる自身を、唯一容認できたからだった。

 

「経験ないかな。ガソリンスタンド特有のにおいとか、マジックから香るシンナーのにおいとかに惹かれたこと。それとおんなじ感じでさ。俺は家の空気がとにかく嫌で、部屋中を絵の具や塗料のにおいで充満させることで安心感を得ていた」

 

 シャワーを浴び終わった東伍にタオルを手渡しながら、ジンが続ける。

 

「でも、そのうち朦朧としてきて、一回意識が飛んじゃって。救急車を呼んだことがあったんだ。その時初めて、身体に触れてくる救急隊員の幾つもの手に、自分が耐えられないことに気が付いた」

 

 東伍はタオルで髪をぬぐい、用意された服を身につけながら、黙って耳を傾けていた。

 

「発狂して暴れ回る僕を、家族は冷ややかな目で見てたよ。それからはあっという間。十七歳だった僕は高校を中退させられて、施設を転々としたあと、こことは別の隔離室に入れられたんだ。そこはこの部屋によく似ていてさ。いや、僕がここをその場所と同じようにカスタムしたって方が正しいかな。僕はこのまま、この部屋で一生を終える。それも仕方ない。そんな風に諦めていたある日、ふと見知らぬ少年が部屋にやって来たんだよ。そしてその少年は、僕に脱出を提案するんだ」

「あの」

「うん?」

「この服、俺には小さいんですけど」

 

 東伍は自身を眺めるように四肢を広げた。

 パツパツに弾け飛びそうな脇の縫い目、そこから伸びる生地は本来十分袖の服のはずが、七部袖に。ズボンに至っては腰までウエスト部分が届かず、着衣としての機能を果たしていなかった。

 

「あんたと僕とじゃ、身長に十センチ以上の差があるからね。もうすぐ洗濯乾燥が終わるから、それまで我慢してよ。で、どこまで話したっけ」

 

 そう口にするも、ジンは直ぐに話を元に戻す。次々に言葉を繰り出すジンの様子に、東伍はなんとなく焦燥感を感じ取っていた。

 

「そう、それでさ。僕たち二人はなんだかんだで無事に隔離室を脱出できたわけなんだけど、やっぱり上手くは行かなくて。僕なんて特に外の空気が肌に合わなかったから、途中で救急車を呼ばれちゃって。結局、僕たちの冒険は三日ほどで幕を閉じてしまった……あ、その時を思い出しながら書いた絵があるんだ。みてよ」

 

 ジンは声を弾ませて、冷蔵庫の横に立てかけていたキャンバスを取り出す。

 

 それは何か大きくて丸い顔面が、鳥居のような門を挟んでいる絵だった。

 全体的に朱色を基調にしており、門に刻まれた名称の文字は青く潰れている。

 

「これは、何を書いた絵ですか」

「さあね。でもこれが、僕の記憶で唯一幸せだった外の世界なんだ。現着するまでの経路は少年に任せっきりで、僕も精神安定剤で結構フラフラだったのもあってさ。曖昧なとこも多いけど。なんだかんだ一番好きな構図で、筆を取ると大抵これを描きたくなっちゃうんだ」 

「それを、ベッドで?」

「うん」

 

 東伍は液体の飛び散るベッドの謎が解けたことに心底ホッとした。同時に、衛生にこだわるような人がこんな汚れたベッドで眠るのか、と疑問も湧いたが、先ほどのジンの話でそれを呑み込んだ。

 

 少しの沈黙。

 

 東伍は手持ち無沙汰に室内を眺めた挙句、元の丸椅子に腰を下ろし、ジンはキャンバスを抱えながらベッドに胡座をかいた。

 

「まあ。そんなこんなで再び捕まった僕は、今度こそ脱出不可能なこの部屋にぶち込まれた。この小瀬メンタルクリニックは、僕の父が所有する工場から目と鼻の先でね。僕は監視されると共に十五年近く、ここでの生活を余儀なくされたんだ。でも、全く苦ではなかったよ。ほら、ここは前の病院とは比べ物にならないくらい快適だし、僕が望めば大抵のものは与えてくれた。清掃も週に一度行なわれたし、食事も毎日運んで貰えて、仕事も——」

 

 そこまで言って、ジンは途端に口をつぐんだ。そうして上目遣いに東伍をみれば、ニカっと犬歯を剥き出しに笑う。

 

「ねえ。なんか食べる? ほら、僕だけ話していても仕方がないし、あんたの話もさ。晩餐会しようよ。今何時だっけ」

 

 東伍がスマートフォンで確認すれば、時刻はまもなく二十一時になるところだった。分かっていたとはいえ、電波の立っていない液晶画面に改めて肩を落とす。

 

「あんた肉は塩派? それとも醤油? よく焼きがおすすめだけど、レアが好み?」

 

 そう問いかけつつ、ジンは冷蔵庫の一番上の扉を開けた。中から白い煙が飛び出したことで、東伍はそれが巨大な冷凍室だと悟る。

 

「ちょっと待ってください。晩餐会なんて、そんな悠長なこと言っている場合ですか? 食料、三日分しかないんですよね」

「ああ、ちなみにそれ、僕一人分で算出した数字だから。あんたと二人分で考えたら、だいぶピンチな状況ではあるかな」

 

 この時。東伍は目の前に見えている冷凍室に違和感を覚えた。

 冷気と共に煙が室内に傾れ込むと、その先にはぎっしりと材料が詰まっているように見えたからだ。少なくとも、三日で尽きるようには見えなかった。

 

 ジンは霜の張った薄ピンク色の塊を手にすると扉を閉め、それを電子レンジに突っ込んだ。ぴ、ぴ、ぴ、と何度か電子音が鳴る。どうやら解凍機能を使っているらしい。

 ブーン——電球色の明かりに照らされ数十秒。塊が溶けていく。その様子を、ジンは身をかがめて楽しそうに眺めていた。

 

「質問、してもいいですか」

「どうぞ」

「この部屋から出るには、誰かが地下にエレベータを使って下がってくる以外に、方法はないんですか」

「まあ。そうだね」

「それで、あなたはこの部屋で十五年以上生活してるんですよね」

「うん」

「じゃあその肉に見える塊は、いったいどうやってここまで持ってこられたんでしょうか」

 

 ぴー、ぴー、

 

 解凍完了を知らせる電子音。それなのに、ジンは暗い電子レンジ内をみたまま動かず、扉を開けようともしなかった。

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