第10話

 一歩、また一歩と足を出す。

 ビニールシートの穴から少しだけ顔を出し、左から右へとゆっくり視線を動かした。

 

「……手術室?」

 

 そう口にすると共に、東伍は穴をまたいだ。

 二十畳ほどの真四角な部屋を、順に見ていく。

 

 左側の壁には、キャスター付きの丸椅子と、シルバーのトレイが幾重になった医療用カートが数台。トレイにはメスやハサミの他にも、用途不明の金属が整列して並ぶ。脱脂綿、ガーゼ、手袋、注射器。他にも色々あるのだが、ドイツ語で書かれた箱の中身を東伍は知り得なかった。

 部屋の奥の壁には、物干し竿と洗濯機。それからモニターが二つ。その横の機械は心電図を測るものか、吸盤付きの細いくだが何本かぶら下がっていて、壁に取り付けられたフックにまとめて掛けてある。右奥の壁に取り付けられた取手はおそらく、ダストシュートだ。

 そして向かって右側の壁には、かなり大きめな冷蔵庫が聳え立つ。そこから順に電子レンジ、電気ケトル、二口ふたくちコンロに流し台。調味料のボトルがいくつか並び、包丁や鍋などの調理器具から食器までもが、ある程度揃っている状態だった。

 簡易的なカーテンで仕切られた手前のスペースには便座と、それからボックスタイプのシャワー室もあり、横には例の“医療用ジェル”と書かれた袋が山積みにされている。

 

 空調と換気扇は、手の届かぬ天井のすみにひとつずつ。眩しいほどの部屋の明かりは、手術用に設置されたLEDの無影灯が放っており、その明かりを真下で一身に受けるのが、部屋の中央に設置されたベッドだった。

 

 そのベッドには今、誰も寝ていない。

 

「ようこそ。僕の城へ」

「きみはここで、なにを」

「あのさ。その“きみ”ってのやめてくれないかな。僕、一応あんたより年上なんだけど」

 

 東伍は驚いた。男は、十代後半と言われても違和感のない容貌に思えたからだ。

 よれた白シャツの襟ぐりから覗く出張った鎖骨、細い首、目元を隠すほどに伸びた枝毛まみれの渇いた黒髪。

 東伍より十センチは低い男の儚げな出立ちに、ふと湧いた疑問を口にする。

 

「あの。その服って、患者衣じゃ」

「あ、気づいた? 僕の名前はジン。僕はね、ここ小瀬メンタルクリニックの太客・・なんだ。ずっとずーっと、もう十年以上前から、僕はこの部屋にいる。生きていくために必要な設備は、全て揃っているからね」

 

 天井まで高さのある大きな冷蔵庫を指差し、ジンは得意げに笑った。その口元から覗いた犬歯に狂気を感じつつ、今度は東伍がベッドを指差す。

 

「そこにさっきまで寝ていたのは、き……あなたですか」

「そうだよ」

「じゃあ、陽子はどこに?」

「ようこ?」

「小林陽子です。去年のクリスマスイブ、駅前のコンビニでケーキを購入しようとした彼女を、あなたが誘拐したんですよね」

「……へえ、僕が。それで?」

「そ、そのあと陽子をこの病院のどこかに監禁して、だから、今も陽子はこの病院に」

 

 出来るだけ気丈に話したつもりだった。それでも、東伍の声から震えを感じ取ったジンは薄目を開け、首を小さく横に振る。

 

「大丈夫。あんたは悪くないよ」

 

 

 

 

 

 ジンはキャスター付きの丸椅子を引っ張り出すと、そこへ座るよう東伍を促す。二、三度手を叩き合わせるように払った後、自分は赤い液体の飛散するベッドへと腰掛けた。

 

 きっちり膝を突き合わせ、猫背気味に浅く座った東伍は、ぽつりぽつりと状況を話す。

 対してジンは足を組んだ太ももに肘、それから手のひらに顎を乗せる形で、下から煽りみるようにして東伍の話を聞いていた。

 

「なるほど。要約すると、あんたは恋人である陽子って女を探しにこのクリニックまでやってきた。だが入り口で右往左往しているうちに小瀬がやってきて、一緒に来た教え子に促されるまま、院内に侵入。勘だけを頼りにエレベータに乗って、ここ隔離室に足を踏み入れちゃったってわけだ」

「はい……その、通りです」

 

 東伍は、泉の中に陽子の意識がある、などというややこしい事情は伏せて話した。

 信じてもらえないと思ったのが半分。もう半分は、自分の手の内を全て晒すには時期尚早だと考えてのことだ。

 

「あんた馬鹿だな。隔離室なんだから、普通入ったら中からは出られないって想像つかなかった? 図体ばっかでかいくせにヒョロいし軽いし。なんだか頼りない木偶でくの坊が来たもんだよ」

「すみません」

「でも流石に理解しただろ? 僕はあんたの彼女を誘拐してない。ていうか出来ない。僕がこの部屋から自力で出ることは無理なんだから」

「で、でも。陽子が口にした犯人の容貌は、あなたそのもので」

「容貌ってどんな?」

「目の下の、病的な、クマ……?」

 

 ジンはため息を落とすと、肩に手を当て首を回す。そうして暫く凝りをほぐすように頭を揺らしたあと、呆れの眼差しで東伍をみた。

 

「ねえ、訊いていい? 今その恋人とは連絡が取れる状況?」

「いや、陽子とはもう半年近く音信不通で」

「そう。じゃあその誘拐犯の特徴は、いったい誰から聞いたの?」

 

 あ、と東伍。

 

「この場所を特定したのはどうして? 一緒に女子生徒を連れてきた理由は? そもそも、あんたの恋人が誘拐されているなんて話、本当なの?」

 

 矢継ぎ早に繰り出される質問に、東伍は乾いた唇を舐める。

 その表情に、何故か満足げなジン。組んだ足を戻すと、太腿に手をついて立ち上がった。

 

「まあ、いいや。言いたくないならそれで。どっちにしろ僕たちは、ここで死ぬまで二人きり。食料は約三日分。そのうち水も供給されなくなるだろうから、もって一週間から十日。それまで仲良くやろうよ。煩わしい事情は、この際ぜんぶ忘れてさ」

 

 ジンは言葉を口にしながら、シャワールームの扉を開ける。

 

「とりあえずシャワー浴びてくれるかな。僕、実は汚いのダメでさ。あんたがこの部屋に来てから、身体の痒みが止まらないんだよ」

 

 ジンが顎をあげてみせた首には、赤く発疹が広がる。二の腕を掻き、それから背中にも手を突っ込んで掻きむしり出すジンをみて、東伍は肩を上げて脇を嗅いだ。

 

「俺、そんなに汚いですか?」

「いや。違うんだ。まあ、俺がなんでこの場所に居るのか、どうやって今日まで生きてきたのか……まずは、そんなとこから話を始めてみようか。水野、東伍くん」

 

 ね、と笑う口元に光る犬歯が、やはり不気味で。東伍は頬を引き攣らせ、只々不安を抱えるより他なかった。

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