第9話

「どこだ陽子……どこにいるんだ」

 

 スマートフォンのLEDライトを頼りに、東伍は院内を探る。廊下左側に【スタッフルーム】と札のあるドアを見つけ、ノブをガチャガチャ上げ下げするも、開かない。その先に左に再び曲がれる場所があったが、そこはすぐに行き止まりだった。

 再び廊下に戻り、先を行く。突き当たり右にエレベータ。そのそばの壁に院内図を見つけると、その構造は少々特殊であった。

 

 一階は受付と診察室、待合場。それから先にスタッフルーム。二階と三階は【メンタルルーム】という名のそれぞれ一室のみで、地下一階には【隔離室】とあった。

 

 隔離室——東伍は直感で、陽子はそこだと確信する。

 一機しかないエレベータの開くボタンを連打し、到着した箱の開き掛けのドアを左右にこじ開けると、前のめりに乗り込んだ。

 

「B1……あ、あった」

 

 行き先である地下一階のボタンは、電車の非常停止ボタンのようなカバーで隠されていたが、なんとか見つけて押す。ボタンが点灯したことを確認すると、エレベータが停止するまでの間、東伍は自分の判断が間違いでないことを祈った。

 

 陽子はああ言ったが、小瀬という男は本当に信用できるのか。あの場に二人を置いてきて、本当に良かったのだろうか。

 陽子が精神科に通っていたなんて話は初耳だった。昔とは、どれぐらい昔の話なのか。何の疾患を患っていたのだろうか。

 たった一階、地下に降りるだけの時間が妙に長く感じられて、東伍は唇を舐める。

 

 ガタン——古めかしい箱が、急ブレーキに揺れた。東伍は思考を現実へと引き戻し、エレベータを降りると、目の前に現れた光景に目を見開く。

 

「なんだ、これ……」

 

 二、三歩小さく前に出るも、思わず口元を腕で塞ぐ。

 

 その部屋はエレベータと直結していた。奥に広がる異常な空間を、望遠鏡を覗くみたいに丸くくり抜かれたビニールシートが隔てている。


 こちら側から、あちら側へ。

 頭を屈め、くり抜かれたビニールの円を踏み越えれば、それは容易であった。それでも、東伍は踏み出すことができない。

 

 穴の向こう。そこにはベッドが一つ見え、更には得体の知れない赤い液体が、あちらこちらに飛散していた。

 

 盛り上がる掛け布団が、規則的に微かに膨らむ。隙間から見える、左右の足の裏。

 誰かが寝ている。白い壁に反射して、目が眩むほどに明るい空間の真ん中に、誰かがいる。

 

 陽子かもしれない。でも、陽子じゃないかもしれない。呼吸がある。生きている。それが分かっただけでも、今はこの場を後にして、外にいる陽子に報告すべきなのではないか。

 

 思考が騒めく。呼吸も浅くなり、東伍の額に汗が滲んだ。

 

(無理だ……俺は、この先には行けない)

 

 右足が一歩、後退る。

 東伍は瞬時に身体ごと振り返り、手を伸ばした。だがすぐに異変に気付き、愕然と眼球を動かす。

 

 

 ボタンがない。エレベータのボタンが、どこにも見当たらないのだ。

 

 

 階数表示も、上矢印も、何もない。そこには真っ白にひび割れた壁と、頑丈に口を閉ざした鉄の扉があるだけだった。

 東伍は急いでスマートフォンを確認するも、表示は圏外。心臓が締め付けられ、鼓動が早まる。

 

「そんな……」

 

 壁に手のひらをつき、顔を寄せた。ペタペタと情けない音を鳴らして、壁に縋る。

 

「嘘、だろ」

 

 ペタペタ——ぺたぺた——

 

 焦る東伍は気付かない。床から重なる、もう一つの音に。

 足の裏と冷えた床とが、若干の湿り気を含んで、東伍の背後に迫る。

 

 ペタペタ——ぺたぺた——

 

 

 

「誰、あんた」

 

 

 

 聞き覚えのない声。東伍は俊速で肺に息を吸い込むと、身体を硬直させて状況把握に努めた。

 

 右頬に感触。冷たく、なにか粘度のある液体が頬にへばり付く。

 視界の端にとらえた右手の爪は噛み癖があるのか、極端に短いうえに先端が淡く赤かった。骨張った、男の拳だ。

 

「あの、俺」

「名前は? 歳と身長と体重、はいどうぞ。ついでに今、何月何日?」

「今日は、五月十六日、です」

「五月……」

 

 男の右手に、迷いが帯びる。

 その隙、東伍はブリキのように首を軋ませ、眼球を最大限右下へと向けた。

 

 薄い眉毛に青白い肌。ちくちくと生えた顎髭が囲む、皮の剥けた唇。華奢な身体。

 年齢は東伍より幾らか下に見えたが、それよりも注目すべきは目の下に浮かぶ濃いクマだった。

 

(間違いない。陽子を誘拐した犯人だ)

 

 東伍は唾を飲み込む。頬に張り付いているのはおそらく医療用のメスで、付着しているのは血液だと予測。先ほど見えたベッドに飛散していた赤い液体も血液だとすれば、横たわっていた人物は呼吸をしていたとはいえ、危険な状態かもしれない。

 

 ——それが陽子の身体である可能性は、非常に高いと思えた。

 

「名前は水野東伍、歳は二十七。一八一センチ、六十五キロ」

「六十五ぉ?」

 

 男が不満げに言う。東伍より十センチほど身長の低い男は、下から上へと東伍の身体を舐め見ると、一つ舌打ちをした。

 

「……おもんな」

 

 そうしてやっと、東伍はメスから解放される。男は興味を失ったのか、耳の下あたりを掻きむしりながら踵を返すと、くり抜かれたビニールシートを器用にくぐって、ベッドのある向こう側へと行ってしまった。

 

 咄嗟に右頬に触れる。だが東伍が確認した右手は予想に反して赤くは染まらず、代わりに透明で得体の知れないジェルが手のひらに付着していた。

 かえって不気味な状況に、穴からひょっこり顔を出した男はふっと笑う。

 

「安心しなよ、それ医療用ジェル。別に変なもんじゃないから。水の節約に、メスやら何やらジェルで洗ってんの」

「節約……」

「まあ、そんなとこに突っ立ってたって仕方がないからさ。こっち来なよ、色々と説明してあげるから」

 

 メスを向けられた時より幾分馴れ馴れしくなった男の声色に困惑するも、東伍の背面の扉は相変わらず硬く口を閉ざしたままで、抵抗したところで意味はなかった。

 東伍は一度、ぎゅっと瞼を閉じる。眼球の奥にじわり広がる熱で、これから直面しなければならない現実を無理やり溶かすと、覚悟を決めて目を開いた。

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