第8話

 小瀬メンタルクリニック。そう看板を掲げた施設は名の通り、精神科を主にした病院のようだった。

 分厚いコンクリート壁が特徴の建物は窓も少なく、ところどころにヒビが浮き出ていて、どことなく不気味な空気を纏う。

 玄関までの階段を数段上がると左側に傘立てがあり、そこには破れたビニール傘が二本、ボタンの外れた状態で無造作に差してあった。

 

「明かりも消えてるし、誰もいないみたいだね」


 ガラス戸におでこを寄せた東伍が言う。看板や受付カウンター、待合場の革のソファが、月明かりに照らされてぼんやりと輪郭を持っていた。


「今日は火曜、休診日だもの」

 

 陽子はキョロキョロ辺りを見回し、大きめな石を見つけると、両手で持ち上げる。

 

「え、ちょっと! なにする気?」

「仕方がないじゃない。鍵、持ってないんだもの」

「それにしたって、その方法はどうなのかな」

「じゃあ他に何か手があるの? 東伍、すこし下がってて」

「あ」

 

 陽子が振り子のように腕に勢いをつけて、持っていた石をガラス戸に叩きつけようとしたその時。東伍は慌てて陽子の肩を掴んで止めた。

 

「もう! 今度は何よ!」

「そこ見て。ガラス、割れてる」

 

 驚いた陽子が下を向けば、確かに鍵の摘み周辺のガラスが割れていた。砕けたガラス片が地面に散らばっている。

 

「え。なんで割れてるの」

「そんなのわかるはずないよ」

「中に誰かいるってこと?」

 

 陽子の言葉に、東伍は再びガラスにおでこを寄せて病院内を見た。外から眺めた限り、人の気配がある様子はない。

 陽子が石を地面に置く間、東伍はさらに思い立ち、締まる戸の隙間に指を掛けて力を入れると——なんと、扉はすんなり開いてしまった。

 

「……開い、ちゃった」

「嘘。どうするの。なんか武器、あ、そこの傘とか持ってく? ボロいけど」

「無茶言うなよ。もし誰かいるんだとしたら、それは陽子を監禁した犯人だろう? 犯罪者相手にボロ傘一本で対抗なんてできない」

「わかった。私がいく。東伍は車で待ってて」

 

 陽子は傘立てから傘をひとつ引き抜くと、くるくると纏めてボタンを止め、左手に握りしめる。

 

「落ち着いて。少し冷静に」

「無理。私、グズグズ悩むの嫌いなのよ」

 

 小さく息を吐き、陽子は意を決して一歩を踏み出した。

 

 

「……どちらさまです?」

 

 

 背後からの男の声。東伍と陽子が反射で振り向けば、男は懐中電灯の明かりを二人の顔に照らし当てた。

 

「何してるんですか。あ!」

 

 男はそのまま戸のガラスに電灯を向け、割れているのを発見すると、慌てて駆け寄る。

 

「いや、ガラスは元々割れていて。あの、私たちはその」

「警察を呼びます。逃げても無駄ですよ、そこに停まっている車のナンバーはもう控えましたから」

 

 東伍が言い訳を口にするも、男は構わずスマートフォンを鞄から取り出した。

 東伍の額に汗が滲む。

 

 このまま警察に通報されてしまえば、今日のことはたちまち学校に知れ渡る。ましてこんな時間に、人気ひとけのない場所で、一緒にいるのが自分の学校の生徒だと分かれば、最悪職を辞さなければならない事態だと瞬時に頭が働いた。

 

 どうする、どうする、

 

 スマートフォンに照らされる男の顔面を見つめながら、東伍が唇を噛んだその時。

 

「いいんですか。警察に連絡して困るのは、あなたの方では?」

 

 陽子の物言いに、スマートフォンを操作する男の手が止まる。

 

「どういう意味ですか」

「去年のクリスマスイブ。駅前のコンビニで起きた事を、近くの防犯カメラが記録しているの。それだけ言えば分かるでしょ」

 

 瞬時に瞳孔を開いた男。その状況を見守りつつ、東伍は陽子の発言の意味を考えた。

 

(こいつが陽子を誘拐した、犯人……?)

 

 東伍は男を三十代半ばと見立てる。白髪の混じる黒髪に色白の肌、撫で肩で華奢なその男にはクマこそないが、どこか病弱に見えなくもなかった。

 腹の底で、怒りが芽を出す。陽子がいなくなってから、不安とわびしさを噛み潰して過ごしてきた東伍にとって、目の前の男は敵以外の何者でもないのだ。

 

「お前が、陽子を」

「待って東伍」

「……とうご?」

 

 東伍の怒りを鎮めるように陽子がいなす。その言葉に、男は一瞬眉を上げた。

 

「東伍……まさか、水野東伍?」

 

 下から上へと、東伍を見定めながら視線を滑らせる男は、幽霊でも見るような怪訝な表情で一歩下がった。

 不審がりつつ、東伍も負けじと男を睨む。男の顔に覚えはなかった。だが相手は東伍を知っている。どうにも気分が悪かった。

 

「僕は小瀬こせといいます」

「小瀬……じゃあ、ここはあなたの病院ですか」

「そうです」

「どうして俺の名前を?」

「それは陽子——」

 

 陽子の名前が出た瞬時、東伍は男の言葉を遮って口を挟む。

 

「やっぱり。あなたが陽子を誘拐したんですね」

「誘拐?」

「とぼけないでください。この病院のどこかに陽子がいるんでしょう」

 

 東伍は傘立てに差してあったもう一本の傘を手に取ると、くるくる纏めて構える。

 

「案内を。陽子のいる場所まで、俺たちを連れて行ってください」

「待って東伍。彼は小林陽子を誘拐したりしていないわ」

 

 振り向く東伍に、頷く陽子。

 街灯にちらつく虫が、妙に騒がしい。

 

「小瀬先生。あなた昨年の十二月二十四日に、駅前のコンビニ近くで浮浪者と揉めていましたよね」

「……」

 

 一体何の話をしているのか、東伍には理解できなかった。考えを巡らせる小瀬を見て、陽子は東伍に耳打ちする。

 

「今よ、東伍。中に入って私を探して」

「え?」

「私が彼を引き留める」

「そんな無茶な。きみは今、高校生なんだよ? 置いて行けるわけないよ」

「私ね。昔、精神科にお世話になっていた事がある。ネットで調べてクリニックの名前を見たとき、まさかとは思ったけど。私は彼に会った事があるわ」

 

 だから行って、と陽子。

 東伍は迷うも、今は陽子の身体を探すのが先と、はやる気持ちを抑える事ができなかった。

 

「すぐに戻る。無理はしないでくれよ」

「わかってる」

 

 少し開き気味の戸を全開にし、東伍は院内へと足を踏み入れる。背後から小瀬の戸惑う声が聞こえたが、東伍はそのまま下駄箱を抜けて受付を右に曲がると、非常灯の光る廊下を走った。

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