第5話
五月十六日 十一時五十分
チャイムが鳴る。
「はい、じゃあここまで。次の授業で小テストやるから、今日やったところを復習しておくように」
ガタガタと、椅子が床に擦れる音が乱れる。同時に、緊張の解けた生徒たちの雑談が増した。
教卓に乗る資料を重ね、小脇に抱えて教室を出る。廊下を進み、階段を下り、社会資料室の前まで来ると、ポケットに手を突っ込んで鍵を取り出した。
拍子に、なにかが床へと落ちる。
「水野先生、落としましたよ」
そう声を掛けてきたのは、あすかだ。
あすかは落ちたそれを拾い上げると、軽く一瞥し東伍に手渡す。それは昨日のレシートだった。
「なんだ。心配して損した」
「え?」
「水野先生、昨日水泳部の練習に顔出さなかったと聞いて。どこか具合でも悪いんじゃないかって心配していたんです。でもほら、パスタとか食べてて、元気そうだし」
「ああ。すみません」
「うちのクラスの
声真似のつもりか、声のトーンが半音上がる。
「……そうだ。須藤先生のクラスって、三年一組でしたよね?」
「ええ」
「隣の二組に、四月から編入してきた子がいると思うんですけど、もう会いました?」
「それって川村泉さん? それはまあ、二組の英語も担当してるんで、授業は何度かしてますけど」
「どんな子です? クラスには馴染めているんでしょうか」
「どんな子って、授業もしっかり受けてくれるし、真面目な生徒ですよ。流石にまだ、クラスメイトとは距離がある感じもしますけど、浮いているとかそんな様子はありません」
「そう、ですか」
「水野先生もしかして、川村さんとお知り合いとか?」
「いや……」
東伍が答えに詰まっていると、廊下の奥にぴょんぴょん跳ねる人影がちらつく。
ベリーショートヘアの活発な女子生徒は、東伍を指さし嬉しそうに言った。
「あ! 水野っち、やっと見つけた!」
噂をすれば凛子だった。
きゃっきゃとテンション高く、東伍のそばへとやってくる。だが次の瞬間、凛子はキリッと眉を顰めると同時に薄目を開き、疑いの眼差しで東伍を煽り見た。
「水野っちを尋問します」
「はい?」
「昨日、ファミレスで水野っちと一緒にいたのが川村さんだったとの証言を得ましたが、真相は?」
マイクを持っているかのような握り拳を突き出して、東伍に迫る凛子。
「えっと」
「あ。即答出来ないってことは本当なの? えー、なに。マジな事実? うわぁ」
「ま、待って船井。川村はその、俺の
咄嗟に、口をついた。
「姉の娘で、昨日はたまたま姉が仕事で遅くなるっていうから、晩飯をね」
「ふぅん。姪ね」
「疑うなら、川村本人に聞いてみるといいよ。内緒にするつもりはなかったけど、なんとなく言いそびれていて。変に誤解させて、悪かったね」
東伍がそう続ければ、凛子と、それからあすかまでもが胸を撫で下ろす。
「そういうことなら早く言ってよね。むしろ親戚なんじゃ、仲良くするっきゃないじゃん。水野っち、いずみんのことはあたしに任せて。クラス全員、まるっと友達にしてみせるから」
「いや、別にそこまでしなくても」
「遠慮しないで。じゃ!」
凛子は晴れやかな顔で手を挙げると、ときどき振り返りながら廊下を走り去っていく。
彼女と口裏を合わせるべきか……そんな考えが東伍の頭をよぎるが、きっと陽子は上手くやるだろうと思い直した。
(そうだ。俺にはもう、関係ない)
忘れたい気持ちと、罪悪感とがせめぎ合う。
東伍は陽子が好きだった。その言葉に嘘はなかった。それでも、
「水野先生?」
あすかに名を呼ばれ、我に返る。
「水野先生って、お姉さんとか居たんですね。私てっきりひとりっ子かなって……」
「すみません。次の授業があるので、俺はこれで」
「あ、ちょっと!」
東伍はあすかに一礼だけして、そそくさと社会資料室に身を隠した。
鍵を掛け、考える。考えては、首を振る。
忘れたいのに。脳裏に浮かんでしまったある疑問を、東伍は考えずにはいられなかった。
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