第4話

 東伍はひたいから頭頂、それから後頭部をなぞるようにゆっくりと撫で、首へと到達した手のひらで凝り固まった脊椎を揉む。

 ぎゅっと瞑った瞼の裏で目玉をぐりぐり動かすと、じわりと熱の広がった目の奥に、身体中の疲れが集まっている気がした。


「わかった。ひとまず信じるよ。きみの意識が陽子だとして、それは一体、どういう状況なのかな」

「それは私にもわからない。目を覚ましたら突然、外だった。それまでは、格子のついた檻みたいな場所に入れられていたの。どうやって外に出たのか不思議に思っていたら、手のひらにマジックで文字が書いてあることに気がついた」

 

 

 “リミットは、十日”

 

 

「近くの公衆トイレに入って知ったの。私じゃない、別人だって。持っていた鞄のなかに淑和高校の生徒手帳を見つけたのが昨日の夜。とりあえず一晩ネットカフェに身を寄せて、こうして今日、東伍を訪ねたってわけ」

 

 東伍は考える。

 今の話が事実だとするならば、何故こんなにも陽子は冷静なんだろうか。

 誘拐監禁され、気づいたら見ず知らずの女子高生の身体になっていただなんて、本来であればパニックに陥ってもおかしくないはず。

 それなのに、東伍の目の前にいる陽子——の意識を宿した女子高生は、悠々とパスタをフォークに巻いていた。

 このファミリーレストランでいつも陽子が注文する、大葉をふんだんに乗せた、たらこのパスタを。

 

「ねえ、東伍」

 

 視線はパスタに落としたまま、声のトーンが若干下がる。

 

「私のこと、まだ好き?」

「なんだよ急に」

「だって、プロポーズしてくれたあの日から、もう半年経った。なんの連絡もなしに行方をくらませた私との恋なんて、もうとっくに忘れてしまったかなって」

「……忘れて、ないよ」

「だったら。協力して欲しいの。私を見つけて、それから私を誘拐した男を、捕まえて」

 

 東伍はかぶりを振る。

 

「無理だよ。一般人の俺に何ができるっていうんだ。警察に任せた方がいい。俺、今から被害届を出しに行くよ」

「だめ。そんなことしたら私、殺されちゃうわ。それに、警察に行ってなんていうの? 小林陽子が誘拐監禁されてるって? 東伍はその情報を誰から聞いたと言うの? 私が川村泉でなく、小林陽子の意識を持った別人だって、どう説明する気なのよ」

「分からないよ!」

 

 東伍の声に、他席よりちらほら視線が集まる。気まずさを拭うように、小さく咳払いをする東伍。

 

「全然、理解が追いつかないんだ。俺は陽子が好きだよ。その気持ちは嘘じゃない。でも、誘拐監禁? そんな大事になっているなら、陽子の親や警察が不審に思って、既に動いているはずだろう。半年間も、誰も陽子の失踪を気にしなかったなんて、あり得ない」

「……東伍。私を試してるの?」

 

 空になった皿にフォークを置くと、泉はテーブルに両肘を乗せて、顔の前で掌を組んだ。

 

「母は私が小学生の頃に癌で死んだ。父も三年前に、自動車事故で。このことは東伍にも話していたはずだけど」

「……」

 

 東伍が目線を泳がせれば、泉は小さくため息をついて続けた。

 

「わかったわよ。もういい。信じてないなら、この話はこれでおしまい。私一人でなんとかするわ。この身体の持ち主が、東伍の学校の生徒だと知って頼りたくなったけど、信じてもらえると思った私がバカだった」

「お、おい」

 

 立ち上がり、去ろうとする泉の背中に呟くも、東伍の声には陽子を引き留めるほどの力強さはない。

 

「協力できないのならせめて、警察に届けるとか、余計なことだけはしないでよね。もしそんなことをして、万一にも身体が殺されたりしたら……東伍を一生恨むから」

 

 店を出た彼女の姿が、角を曲がって見えなくなるまで、東伍は計らずも目で追ってしまっていた。

 縋るような自分の眼差しにハタと気づき、店内の空気が同情で満たされる前にと、東伍もそそくさと席を立つ。

 

 嘘だと思いたかった。現実ではないと。

 

 だが東伍がレジに出した伝票には無情にも、八八〇円、とパスタの値段が記されていたのだった。

 

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