限定SS『古代の料理』3
(別視点)
その老人は、いつものように近所の食堂『ゾイロス』へ向かった。週1回の楽しみだ。
それが何十年と続けてきた習慣だった。
本当は毎日でも通いたいところだが、店主に気を使わせてはいけない。だから、週に1回と決めていた。
その日は、曇りがちですこし湿度が高かった。
湿った香りに、かつて育った村を思い出す。
河の近くの、平凡な漁村。
海が近いため、河の水はほとんど海水に近かった。
毎年登ってくる、銀色をした魚の大群。
大漁に沸き立つ村民たち。古い桟橋。
料理の香りと祭りの音。
絶えない火。
開かれ、そこらじゅうに干されている魚。
補修のために広げられた網。父が歌いながら、果物の渋で染めた投網を繕っている。
木桶に穀物と共に漬け込まれた魚の、酸味のある匂い。口に含むと広がる旨味。
そういったすべてを、一瞬のうちに思い出しては、また過ぎ去っていくのを眺める。
そんな日々を送っていた。
食堂のいつもの席に座ると、白い髪に褐色の肌をした青年がやってきて飲み物を出した。この店で最近手伝いをしている者だ。最近、といっても彼が来てすでに数十年は経ったか。
店主に似て口数は少ないが、料理の腕は確かで誠実な人物だ。
青年に、「いつもとは違う料理を食べてみないか」と話しかけられた。
老人はうなずいた。
予感があった。
店に入った瞬間から、どうにも懐かしい香りが漂っている気がしたのだ。
どれほど待っただろうか。
老人の前に、湯気を立てる皿が置かれた。
胸が高鳴り、喉が鳴る。
葉に包まれたそれを、震える手で開く。
まだ熱く、火傷しそうになるが、気にしていられない。
開いた途端、もわっと湯気が上がった。
そして、やはり懐かしい香りが広がった。
ああ、これだ。
今はない故郷で、何百年と受け継がれてきたこの料理を、何百回食べたことだろう。
当時はこれが特別だとは思わなかった。それがあるのが当たり前で、なくなることなど想像もしなかったのだ。
以前、青年に語った呟きが、現実になるとは思わなかった。どれほどの労力をかけて、これを作ったのだろうか。
青年はじっと老人を観察していたが、そんなものは気にならなかった。
老人はしばらくその料理を感慨深げに眺めた。
それから、そっとすくい、口へ運んだ。
じわりと、旨味と酸味がひろがり、そこに焦がした穀物の香りが混ざって鼻腔を突き抜ける。
これだ。
老人が思い描いていた料理そのものだった。
もちろん、わずかな香辛料のちがい、食感の違いはあるかもしれない。しかし、それは些細なことだった。その香りから、さらに思い出が甦る。
幼き日、兄弟たちと並んで座ってこれが焼き上がるのを待っていたこと。包んで焼いたものをそのまま野外へ持っていって弁当にしたこと。祝い事があると、キノコや珍しい山菜などの具が増えたこと。漁が不作だった年は、少ないものをみんなで分け合って食べたこと。
今までの比ではない記憶が、鮮明に浮かび上がった。
もうない村、もういない家族。
彼らも確かに存在していた。
この料理が、その証明だ。
老人は笑った。
まるで夢を見ているような心地だったからだ。
それに、もう食べられないと思っていたものを口にすることができたのだ。それ以上の喜びがあるだろうか。
幸福の記憶をゆっくりと噛み締めた。
老人は、傍で自分を見つめる青年に向かって感謝を込めてうなずいた。それを言葉にするのは難しく、ただうなずくことしかできなかった。
これを作ったであろう青年には、老人の内奥で生じたいかなる現象も見えはしない。どれほどの喜びが湧き起こったのか、など決してわかりはしないのだ。
しかし、青年にとっては老人が心から笑った、その笑顔だけで十分だった。
やっと、本当の意味で成功したのだ。
努力は報われた。
青年は、かすかに笑みを浮かべて『ゾイロス』の厨房へと戻った。
もちろん、自分もその料理を食べたいからだ。
青年が料理する理由は、それだけだった。
後に、アキに協力した民俗学の講師も、報酬としてこの料理を食べた。
そして号泣した。
今まで、古代の料理をここまで正確に再現できたことがなかった。自分は料理が不得手であるし、他者は古代料理にそこまで情熱を傾けてはいない。
今回、料理の再現が可能になったのも、ひとえにアキの偏執的なまでの料理への執着があったからだ。
気難しいと評判のその講師が、アルル爺さんよりもよっぽど感動している様子をアキは不思議な心持ちで眺めた。
その後、その講師から依頼を受けて、アキは何度か古代料理の再現に挑戦した。
その度に、食卓に旧くも新鮮な味わいの料理が並ぶので、仲間たちはたいそう喜んだ。
こうして、アキはまた料理人としてさらなる成長を遂げることになった。
やがて年月が過ぎ、彼らの拠点にやってきた少年によって、また新たな料理の風が吹き込むのであった。
(おしまい)
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