書き下ろしSS『薄紅色の舞踊』
※こちらは、ダインと患者の姫騎士の話になります。本編でも少しだけ言及していましたが、より詳しく書きました。だいたい122話ごろの話です。
2人はあくまでも治癒師と患者の関係です。
それ以上になることはありません。
また、少々グロテスクな表現が含まれます。
ご注意ください。
***
(別視点)
室内に入った途端、花の香りが強くなった。
広く、明るい部屋だった。
大きなガラス窓からは庭に咲き乱れる花がよく見えた。家主が娘の目を楽しませるために特別にあつらえさせた庭は、いつでも美しい花が咲き、香りを届ける。
通い慣れたその部屋の、見慣れてしまった景色。
室内に足を踏み入れたというのに、ダインはしばらくぼんやりと外の景色を見ていた。
不意に、つるりとした石床を踏むペタペタという音が響き、ダインは室内へ視線を戻した。
瞬間、視界が薄紅色に染まる。
「見ろ!」
楽しげな笑い声を上げ、薄紅の長い髪をもつ女性がくるくると回りながらダインの前を横切った。
継ぎ目がわらないほどに磨き抜かれた石床を裸足で踏み、飛ぶように踊る姿があった。ダインは思わず息を呑む。
髪をなびかせ、薄い室内着をはためかせ。
整った庭を背にして、彼女は全身で自由を表現した。
それは、ダインが今まで見たどの舞踊とも比べようのない美しさだった。
つい先日まで存在しなかった片足も、しっかりとその役目を果たしている。
しばらく言葉を失い、その風景に見入った。
夢を見ているような心地だった。
やがて踊っていた彼女は息を切らせ、長椅子に腰掛けた。控えていた侍女が、すかさず水の入った杯を差し出す。
夢の終わりを知り、ダインはのっそりと長椅子の対面に置かれた小さな丸椅子に座った。ダインの大きな体が乗っても、その椅子が軋むようなことはなかった。
身分から言えば、断りもなく座るのは無作法だったが、女性も侍女もそれを気にした様子はない。
「……まだ産まれたてだ、無理すんじゃねェ」
ダインが丁寧語をかなぐり捨てた口調で低くそう言うと、女性は片足を差し出しながらくつくつと笑った。
ダインは彼女の足を自分の膝の上に乗せ、手をかざして診察を始める。
「お前だって無理をしたくせに」
「……経過は」
「いつも通りだ。初めは刺すような痺れたような感覚が続いたが、それもおさまって見ての通りだ」
「造血剤は」
「規定通り服用した。今のところ貧血も動悸もない」
女性の答えを聞き、ダインはちらりと侍女を見やる。侍女はうなずいた。
それを確認してから、また視線を足へ戻す。
もう片方に比べて筋肉の少ない、細い足。
生まれたての赤子のような皮膚。踵もつるりとしている。
かつて彼女が騎士だった頃とは、恐らく比べものにならないほど貧相な足だ。ダインは元の状態を見たことはなかったが。
しかし、たしかに存在している。
つま先に至るまで、完璧に、そこに有る。
触れることで、ようやく実感できた。
自分は、彼女を治したのだ。
四肢も、皮膚も、その下にある骨も筋も肉も血管もすべて。
血液を除いたすべてを、完璧に。
自分が成し遂げたことなのに、まるで奇跡のように思えた。
足をそっと床へ下ろし、ダインは短く息を吐いた。
「──完治だ」
そう告げた瞬間の彼女の顔は、パッと花が咲いたように見えた。
控えていた侍女も、そっと目を拭っている。
長い戦いだった。
これまでの出来事が脳裏をよぎる。
負傷兵の天幕に突っ込んできた決死の敵兵が、酸の入った桶を振り回した。乗馬したまま咄嗟に負傷者と従軍治癒師たちを庇ったのが、姫騎士と呼ばれていた彼女だった。
酸をもろに被った彼女は、ダインの機転により一命を取り留めた。負傷兵と治癒師を守ることができたが、その姿はひどく変容してしまった。
結果的に、四肢のほとんどを失うこととなった。彼女の治療を最優先にしなければ助からなかっただろう。彼女が乗っていた愛馬は、残念ながらその場で息絶えた。
助かってからも、治療は困難を極めた。
肉塊のようになったその姿を見て、そのまま騎士として名誉の死を与えてやったほうが良かったのではないか、と思う日もあった。彼女の治癒に従事した者は皆、口にはせずともその考えが浮かんだ。
生きていても、つらく惨めな日々が続くことになる。騎士とはいえ、高位の女性がそのような恥辱に耐えられるとは思えなかった。
だが、彼女の聴力と声帯を治療して意思を確認すると、朦朧としながらも「私は、生きねばならぬ……!」と叫ぶような答えが返ってきた。
それからは迷いを断ち切り、治癒に専念した。
そして、彼女は恐るべき精神力で耐え抜いた。
ダインは専属治癒師となり、最後まで彼女の治癒を担当した。
治癒師には莫大な金が支払われる。国からの褒賞もあり、当分働かなくても生きていける金が手に入った。
しかし、ダインにとって金は関係なかった。
自分が生かすことを選んだ患者を、最後まで看なければならないという治癒師としての責任感だけが、ダインを動かしていた。
再生には時間がかかった。治癒師は血液を再生させることができない。一気に手足を作ってしまうと、患者が重度の貧血に陥ることになる。それに、欠損部の再生は、治癒師の側にも負担を強いる。
少しずつ、少しずつ。
彼女の体は元の形を取り戻していった。
何年も経て、ついに自らの両足で地面を踏み締めることができるまでになったのだ。
本当に、長い戦いだった。
「ようございました、ロズヴィータ様……」
「お前もよく仕えてくれたな。……そう泣くでない、喜びの時だぞ、笑え」
「はい……!」
常に彼女のそばにあり、献身的に看護してきた侍女はいよいよ泣き出し、そして主の命令通りに笑おうとした。
そのやり取りに水を差すことなく、ダインは静かにしていた。
「ヴェル・ダイン、お前もなぜそのような顔をしている。もっと喜べ」
「その呼び方はやめろ」
「このような偉業を成し遂げたのだぞ?私と父上の口添えがあれば、お前は特級治癒師へと格上げされることだろう。相応しい称号ではないか」
「絶対に、やめろ」
本当に嫌そうな顔で拒絶の意思を示すダインに、彼女、ロズヴィータはくすくすと笑った。
ダインならそう言うだろうとわかっていた。
「なぜ特級を厭うのだ。名誉であろう」
「オメェ、特級になっちまったら、どんな目に遭うか知らねェだろォ」
「環位の患者が増えるだろうな。良いことではないか」
「いいわけあるかよ」
極めて不本意、という表情でダインは吐き捨てた。
ロズヴィータは、興味深げにダインを見やる。
「ほう、どのような弊害があるというのだ」
「ハァ……。俺ァ不敬罪になりたかねェんだが?」
「構わん。私は騎士だぞ、多少の醜聞で動揺するようなたちではない」
いかなるものも受け入れる、というような態度で彼女は両手を広げた。
ダインはため息をついてから、渋々話し始める。いくら無礼講だからと言って、上のものには逆らえないのだ。
「……治癒師は、何も治癒だけが仕事じゃねェ。ときに高位のお方から内密の相談を受けることもある」
「なるほど?」
「ある結婚したばかりのお方は、俺に会うなり下履きを脱ぎ捨てて言った、『私は妻を喜ばせることができるだろうか?』ってなァ。知るかよって話だぜ。教師に聞けと言ってやったが、教師は未婚だとよ」
「それはまた……」
「別のお方は、『爪の形が気に入らないから何とかしろ』とか言ってきやがった。知るかよって話だ。他にも、オメェにゃ話せねェようなあれこれがだな……」
「なんとも、まあ……」
ダインの話を聞き、ロズヴィータは苦笑いのような表情を浮かべた。
環位の中には、想像を超えた要求をしたり、性に関する知識が乏しい者も多い。
隔離された社会だからこそ、そのようなことが起きるのだろう。と、当事者である彼女には容易に理解できた。
あまり上品とは言えない話だったが、仮にも騎士として男性や下位の者に混ざって訓練を積んできたロズヴィータにとっては、そう驚くようなものではなかった。
もっとも、侍女は眉をひそめつつ抜かりなく遮音していたが。
「特級なんぞになったら、毎日そればっかりになるわけだ。俺ァごめんだな」
「……それならば、仕方あるまいな。お前向きではないことがよくわかった」
「それに『特級』は俺の実力にゃ見合ってねェ。治癒師ってのは技量がすべてだ。お情けで格上げしてもらっていいもんじゃねェ」
ダインが付け足したその言葉こそ、特級に上がりたくない本当の理由なのだろう、とロズヴィータにはわかった。
奇跡を成し遂げてもなお、ダインにとっては技量不足らしい。
怠惰なのか、完璧主義なのか。
侍女が淹れた茶をゆっくりと飲みながら、彼女は難解な男を眺めた。
「残念だ。特級にもなれば、私との婚姻も叶うというのに。お前の目覚ましい働きを考慮に入れたなら、父上も賛同すること間違いなしだ」
ダインはむせた。
からかいに成功した彼女は、満足げだった。
「満更でもあるまい。お前、私の髪を気に入っていただろう。手足より先に頭髪を再生させたのだからな」
「オメェ、思ってもねェことを言うな。俺ァ尊厳ってやつを考えてだなァ……」
「なんだ、体の隅々まで知った女では不満か?」
彼女は挑戦的な笑みを浮かべた。
ロズヴィータは魅力的な女性だ。その美貌もさることながら、高位にも関わらず気さくであるし、時に上品でない冗談も言う。
治癒を通じて、お互いの距離も近くなった。
それこそ、結婚してもおかしくない程に。
悪い話ではないだろう、と冗談めかしつつ半ば本気でロズヴィータは挑発していた。
ダインはため息をつき、茶を啜った。
そして、ゆっくりと眠たげな目を彼女に向けた。
「
その返しに、ロズヴィータは虚を突かれたような表情になる。
それから、笑った。
大いに笑った。
涙が出るほど笑い、ロズヴィータは大きくため息をついた。
「──残念だ、本当に残念だよ、ダイン。そこまで私を理解しているというのに」
「理解はしてねェ。『視える』ってだけだ」
「わかっているよ」
柔らかい声でロズヴィータは答えた。
ダインが自分のことを患者、そして戦友としてしか見られないことはわかっていた。自分もそうだからだ。
そして、ダインの『権能』が戦地でどのような働きをしたのかについても知っていた。
ダインの傷は深く、未だ癒えていない。
騎士である彼女がそばにいる限り、癒えることはないだろう。
だが、2人の戦争は、今日ようやく終わった。
今はそれを喜ぶべきなのだ。
「さて、これからは乗馬の訓練だ。姿勢を崩さずに乗り続けるのが、かくも困難とは思わなかったぞ」
「新しい馬には慣れたかァ?」
「ああ。王より賜った馬は、私によく懐いてくれている。命を預けられる頼もしい相棒だ」
「……行進には間に合うか?」
「間に合わせるとも」
そのために、ダインは無理をして治癒を早めたのだから。その功に報いなくてはなるまい。
言葉を飲み込み、ロズヴィータは力強い笑みを見せた。
ダインはようやく肩の荷が降りたように感じた。
終わったのだ、長い日々が。
茶器を侍女へ渡し、ロズヴィータは立ち上がった。
その自然な動作をするためだけに、どれほど訓練を積んだことか。不自由を忍び、何度も物を落とし、何度もつまずき、何度も転んだ。
権能を使わずとも、ダインにはわかっていた。
「ダイン、私は生きるぞ。命ある限り王のために尽くすことこそ、騎士たる者の道だ」
「あァ」
「私は、生きるのだ。いつか、大いなる巡りへと還る日まで」
彼女は、その生き様を見せつけるように優雅に歩き、テーブルのそばへ行った。
ダインは彼女を目で追い、初めてそこに大量の花を活けた花瓶があることに気づいた。
ロズヴィータは花瓶から花を抜き去り、大きな大きな花束にしてダインに渡した。
急に花束を押し付けられ、今度はダインが虚を突かれた表情をする番だった。
「ありがとう。この命は無駄にはしない」
「……なんだ、こりゃ」
「これで最後なのだろう?婚姻で悪しき巡りを上塗りできぬなら、こうするしかあるまい。これからは、良き巡りの訪れを願う」
まるで求婚でもされたような巨大な花束に、ダインは呆れた目を向けた。この部屋の香りの発生源はこの花だったようだ。
ロズヴィータは笑い声を上げながら、また踊った。
「お前は見届けてくれるだろう?『再誕』の祝いを」
なびく長い髪を見て、早めに頭髪を再生して正解だった、とダインはうなずいた。後回しにしては、長さが足りなかっただろう。
そして、民の歓声を受けながら薄紅をなびかせつつ堂々と行進する姿を想像して、ほんの少し頬を緩めた。
戦争が、やっと終わった。
再誕の香りを、肺いっぱいに吸い込んだ。
(おしまい)
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