限定SS『ニヨの散歩』

(別視点)





 ナーオ、と呼ぶその声で、アクシオは机から顔を上げた。


 建物の入り口で、飼い猫のニヨが待っていた。



「おや、出掛けるのか。食べ物をもらいすぎてはいかんぞ、ニヨ」


 扉を開けてやると、ニヨはするりと灰色の身を踊らせて通りに出た。いつもの散歩の時間である。



 ニヨは特に誰に邪魔されることもなく、自由気ままに街の中を歩いた。目指すは丘の上にある家だ。


 時折、通りを歩く人間が塀の上を軽快に駆けるニヨに挨拶をする。


 撫でようと伸ばされる手を躱し、差し出されるおやつをありがたくもらい、ニヨはひたすら歩いた。


 やがて、坂の上に大きな家が見えてくる。


 匂いからして、今日は留守ではないだろう。この料理の匂い、いつもおいしい干し魚をくれる人間がいるに違いない。

 


「あ〜、ニヨだ〜」


 家に入ろうとしたところで、人間の子供に捕まった。目的地の隣に住んでいる子供だ。


 いいところで邪魔が入って、気分が降下する。しかし、おとなしく撫でさせてやったほうが早く終わることを、ニヨは経験で知っていた。


 存外に撫でるのがうまく、道端にごろんと転がって腹まで見せてしまった。あくまでも、これは妥協である。天気が良くて、ちょっと気持ちよかっただけだ。


 子供が満足して離れたところで、急いで目当ての建物へ飛び込む。


 ちょうどテラスの窓が開いており、ニヨは容易に目当ての人物の元へたどり着いた。


 いつも、いい匂いを出している人間だ。その人間は、いつものようにクッションに埋もれてうとうとしていた。


 匂いを確かめる。


 わずかに酒の匂い、それから食事の匂いがする。その他は異常なしだ。自分の匂いをつけておかねばならない。


 ニヨは寝ている人間の足に体をこすりつけた。



「ナー」

「……あァ?また来たのかオメェ」


 呼ぶと、人間はうっすら目を開いてニヨを確認した。そしてすぐに目を閉じる。


 挨拶を終えたニヨは厨房の方へ行った。


 予想通り、そこで忙しなく働く人間がいて、ニヨに気づくとすぐに小さな干し魚を差し出す。


 これがまた、絶妙に美味だった。


 それを堪能したのち、寝床へと向かった。


 寝ている人間の、ちょうど腰あたりがいい感じだ。


 いつものように、温かくやわらかい人間を寝床にしてニヨはあくびをした。


 その人間のそばにいると、森の中で木漏れ日を浴びているような、そんな心地になるのだ。


 小川のせせらぎ、鳥のさえずり、吹き抜ける風に木の葉が揺れる音、湿った土の匂い、動き回る小さな生き物の気配。


 そういった物が、すぐそばにあるように感じる。遠くで、とてもいい香りの誰かが「おいで」と呼んでいる。帰っておいで、と。


 夢のように穏やかで、安心する場所。


 この、寝床にしている人間は、そういう気配を持っていた。


 

 うとうとしていると、部屋へ入ってくる人間たちの気配がした。


 知ってる匂いばかりだ。中には、最近あらわれた子供の匂いもある。


 そう、最近ここに子供が来た。


 街の子供たちとは違い、その子供は静かだ。それに匂いも落ち着く。


 初めの頃は、少し怯えたような匂いがしていたが、それもなくなった。かわりに森の匂いが強くなっている。悪くない。


 部屋に入ってきた子供は、ニヨに気づくとじっと見てから手を差し出してきた。


 ニヨは指の匂いを嗅ぐ。元気そうだ。ざりざりと舐めると、子供はくすぐったそうに手を引っ込める。でも、またすぐに手を伸ばしてニヨの額をかりかりと撫でた。


 顔の周りをひと通りかりかりと撫でさせてやる。ぎこちない手つきだが、乱暴ではない。ニヨはこの子供の手を結構気に入っていた。


 前足の肉球を握らせてやっていると、もぞもぞと寝床が動いた。


 動かなければ最高なのだが、人間は動く。


 トン、と床に降り立って、クッションの隙間に体をねじ込む。この人間も悪くないが、クッションもまた悪くない。



「ほら、こいつでそっと梳くんだ」


 クッションの上で伸びていたら、手に櫛を持たされた子供が近づいてきた。


 そしてニヨの毛並みに沿って撫でるように動かす。


 なかなか心地よいので、されるがままだ。最初はおずおずと櫛を動かしていた子供だが、段々と大胆な動きをするようになった。


 ザッザッザッ、とはぎ取るように櫛を動かす。


 大量の毛が収穫された。


 子供はそれを両手で掴んで魔力を流し、浄化する。金色の光が舞った。子供の魔力は心地よかった。


 しばらくのんびりと過ごしていると、いつのまにか夜になったことにニヨは気づいた。


 床に降りて鳴くと、人間たちが次々にニヨの背を撫でて別れの挨拶をした。


 もう一度、寝床の人間に体を擦り付けてから、ニヨは夜の街へ跳躍する。


 家々から漏れ出る光、食事の匂いや笑い声の間をすり抜けて、自分のうちへひたすら走った。



「ナーオ」

「帰ったか。今日は早かったではないか」


 アクシオが窓辺に佇むニヨを見つけ、室内へ招き入れた。


 出された食べ物を美味しくいただいたあと、暖炉の前に座るアクシオの膝の上で丸くなった。


 毛皮にじんわりと熱が伝わる。


 明日はどこへ行くんだったか。


 そろそろネズミを減らしておかねばなるまい。それにいつも食べ物をくれる老婆の元へ行かなくては。隙あらば撫でまわそうとしてくる武器を持った人間には、引き続き注意が必要だ。


 ニヨは大きくあくびをした。


 パチパチと薪が燃える心地よい音を聞きながら、眠りに身を委ねる。


 明日もまた、良い寝床を探す旅に出る。






(おしまい)


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