第26話

「仕方ないよね。写真が届いたのは美幸なんだから」



明日香がじりじりと美幸に近づいてくる。



美幸は必死に身を捩って逃げ出そうとするけれど、豊がそれを許さなかった。



明日香が美幸の手首を掴み、痛いほど床に押し付けてくる。



カッターナイフの刃が手首に押し当てられてチクリとした痛みが走る。



その瞬間美幸の両目から涙がこぼれだした。



自分はここで死ぬんだ。



あの写真と同じように、手首から血を流して。



一瞬明日香の手が止まる。



まるで美幸の様子を確認するように顔色を伺っている。



助けて!



やめて!



心の中で必死の叫び声をあげるけれど、口が塞がれていて声にならない。



手足が少しでも動けないいのに、それもかなわない。



やがて明日香はカッターナイフを握りしめている手に思いっきり力を込めた。



薄い肉をサックリと切り裂いていく感触がある。



太い血管が切れて、パックリと開いた傷口からジワリと血がにじみ出てくる。



あとは噴水のほうに次から次へと血が流れ出し、生暖かな水たまりを作るのだった。





美幸の過去


美幸と明日香は同じ中学校に通っていた。



昔からあまり折り合いはよくなくて、特に美幸は明日香のことを毛嫌いしていた。



なにか大きな原因があるわけじゃない。



ただ、馬が合わないのだ。



「ほんっとイラつく」



教室後方で美幸は机の上に座って足を組んでいた。



美幸の周りには数人の取り巻きたちがいて、みんな明日香を敵視している。



中学時代の美幸は今よりももっとキツイ性格をしていて、それに憧れて近づいてくる生徒たちも少なくなかった。



悪いものに憧れる世代だったし、なにより美幸は綺麗だった。



綺麗で怖い印象を持つ美幸は一種教祖様的な立ち位置だったのだ。



そんな美幸が明日香のことが気に入らないというので、取り巻きたちは当然のように明日香のことを目の敵にしはじめた。



最初は明日香が話しかけてきても無視したり、陰で笑う程度だった。



だけど明日香は



その程度のことでは動じなかった。



悪口を言われても無視されても、自分を崩そうとしないその姿は美幸にとって疎ましいものだった。



そしてこのときになってようやく、どうして自分が明日香にこだわっているのかが理解できた。



外部からの影響をほとんど受けず、自分を保つことができているからだ。



中学生という多感な時期に他人からの影響を受けないその姿は、強くてたくましく思えた。



だからこそ、壊したいと思ってしまうのだ。



美幸はそう自覚をした日から本格的に明日香をイジメるようになった。



靴にラクガキをしたり、机の中に虫の死骸を入れたり。



明日香はその瞬間は大きなショックを受けて声をあげたり、泣いたりした。



だけど1時間ほど経過すればすぐにいつもどおりの様子に戻るのだ。



「明日香ちゃん大丈夫?」



「もう大丈夫だよ! それより今日うちに遊びにこない? おもしろいDVDを買ったの!」



そんな会話は幾度となく教室内で聞かされた。



いっそのこと明日香から友人を奪ってしまえばいいのかもしれないとも考えた。



だけどそれは無理なことだったのだ。



美幸同様に人気のある明日香の元にはいつも誰かが一緒にいた。



その相手に明日香の陰口を吹き込んでも、また違う誰かが一緒にいる。



そして気がつけば、明日香から離れていったはずの子も戻ってきているのだ。



明日香にはかなわない。



美幸はそう自覚して、イジメは一ヶ月ほどで収束した。



それ以降美幸は明日香へ向けて敵意を剥き出しにはしていない。



だけど、明日香の方はあの一ヶ月間を忘れてなどいなかった。



靴にラクガキされたとき、マジックで大きく書かれた罵詈雑言に心が踏みにじられた気分になった。



机の虫の死骸を入れられた時には悲鳴を上げて逃げ出し、その後少し泣いてしまった。



それでも友達には心配かけたくなくて、気丈に振る舞っていただけだった。



本当は辛かった。



叫びたかった。



明日香にはそれができなかっただけだった。



おかげでイジメはあ早々になくなったけれど、許したつもりは一ミリだってない。



明日香は血を流している美幸を見下ろしていた。



すでに全身の力は抜けていて、豊が拘束していなくても逃げ出すことは不可能になっている。



「死ねよ」



意識が遠のきつつある美幸へ向けて、明日香はそう囁いたのだった。



翌日もまた雨が続いていた。



しかし昨日までの豪雨とは少し違うようで、風が柔らかくなったようだ。



結は部屋の窓から外の様子を確認して少しだけ胸をなでおろす。



この調子で天候が回復してくれれば、下山できるようになるかもしれない。



「どうしたの?」



先に起きていた明日香が布団をたたみながら聞いてくる。



「風が少しマシになったみたい」



「本当だ」



明日香は昨日の夜、教室内で月明かりを感じたことを思い出した。



あの時間帯は雲が晴れていたみたいだ。



「ちょっと、事務所へ行ってみようか」



「え?」



「電話線が直ってるかもしれないでしょう?」



結の提案に明日香が目を見開いた。



そんなこと考えてもいなかった。



この豪雨が続いている中でも、復旧作業はするんだろうか?



疑問に感じている明日香を横目に結は部屋の出たのだった。


☆☆☆


施設の事務所は1階の角部屋にある。



階段を降りて最奥へと向かっていると途中で豊とすれ違った。



豊は食堂へ向かっているようだけれど、結の顔を見た瞬間視線をそらした。



「おはよう」



結は気にせずに声をかける。



逆側からやってきたということは、トイレにでも寄ってきたんだろう。



「あ、あぁ」



なぜだか視線を外したまま曖昧な返事をする。



いつもと違う豊に違和感があるものの、「明日香ももうすぐ来ると思うよ」と告げて再び歩き出す。



事務所の前まで来るとなんとなくそのドアをノックしてしまう。



学校の職員室の雰囲気とよく似ているからだろうか。



結は自分の行動に笑みを浮かべながらドアを開いた。



そこには2つのデスクが並んでいて、奥には簡易的な応接室が作られている。



半透明のパーテーションで仕切られていて、茶色くて重厚感のあるテーブルのソファが置かれていた。



デスクの上には白い電話が置かれていて、結は近づいて受話器を上げた。



耳に当ててみるがなんの音も聞こえてこない。



やっぱり通じない……。



淡い期待はすぐに打ち砕かれて心が重たくなってゆく。



こころなしかさっきよりも外の風が強くなった気もして、強いメマイを感じて椅子に座り込んでしまった。



いつまでここにいればいいんだろう。



本当に助けは来るんだろうか。



今までなるべく考えないようにしてきた不安が一気に湧き上がってくる。



一度湧き上がってくるともう止められない。



結の頭の中には不安と恐怖でいっぱいになる。



「どうしよう……」



呟いて冷静になろうとするものの解決策は何も浮かんでこず、余計に心が沈んでいく。



全身から嫌なあせが吹き出してきて止まらない。



こんなところで座り込んでいる場合じゃないのに、動くことができない。



できるだけ楽しいことを考えて気分を変えようと思うのに、思い出すことはここへ来てから始まった地獄の光景ばかり。



先生が死んで、運転手さんも死んで、次から次へと仲間が死んでいく。



その死に様が順番に蘇ってきて口を手で押さえた。



気を張っている間はまだよかったのだ。

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