筒と鏡と偽物の星

宮下愚弟

もう一度、覗きこんで

 小さいころ、万華鏡をバラバラにした。

 きらきらと輝く景色に心躍らせたおれは、いったいどんな素敵な世界がこの小さな筒にあるのだろうと、興奮して万華鏡を分解していく。

 机には、ただの筒と鏡と、偽物の星々だけが残った。

 鏡にはおれの顔が映っている。つまらなさそうな顔だった。

 それから二度と万華鏡を覗くことはなかった。

 いまにして思えば、つまらなくなったのはおれだったんだろう。


 仕事終わり、香奈のことを思い出した。

 大学のとき好きだった女だ。奔放で、気ままで、色事の絶えない悪い女だった。

 そのころ住んでた町にたまたま仕事で足を運んでいたので、思い出したのだ。おれは過去をなぞりに行くことにした。行きつけだった居酒屋を目指して足を運ぶ。

 会社には直帰すると言ってある。妻になんと伝えるか迷ってスマホをしまう。喧嘩ではないがいわゆる倦怠期というやつだ。夜の方もご無沙汰だった。

 改札を抜けると学生たちの歓声が、夕方の風に乗って運ばれてくる。

 ああそうだ。

 たしかあの日もこんな生温かい空気だった。

 ホッピーが美味く感じるくらい、だるくてぬるい日だった。



「聞いてよ良太、まただよ」


 香奈はうるさくて狭い居酒屋の机で頬杖をついていた。


「またなのか」

「そう、またなの!」


 ぐいっとジョッキを持ち上げて、香奈は空気の代わりみたいにビールを飲む。

 おれはいつものようにホッピーを頼んでいた。ビールはどうにも好きになれなくて、でもサワーなんかを頼むのは女々しい気がして、だから見栄を混ぜて飲んでいた。だというのに。


「飲め! りょーた!」


 おれはいいよと断るが、ジョッキを押し付けられたので口をつける。苦い、まずい。みんなこれが好きなのか? ビールが売れてるってのはそういうことだよな。

 おれはホッピーの方が好きだ。洒落てるし。


「くぁー! あいつホントにあり得ない! ほとんど勃たねえ雑魚ちんこのくせに」

「ちょいちょいちょい。直接的すぎ」

「あたしの乳が平たいのが悪いとかほざきやがってマジであいつ、マジで! 悪いか? 乳が無くて。そうかよ悪かったな! でも浮気の理由にはならねえだろうが!」

「あー……」


 いちど相槌のタイミングを逃すとそのままずっと汚い罵倒が列をなしていく。右から左に聞き流していると、グラスが空になっても怨嗟のパレードは続くものだから、おれはだんだんと耐えられなくなってまとめに入る。


「つまり、いつものやつだ」

「いつものです!」


 ドンとガラスの器が机に叩きつけられる。周りの客がなんだなんだと視線をこちらに向け、おれたち──若い男女が座っているのを確かめると、すぐに興味なさげに各々の話に戻っていく。

 香奈とは大学一年のときボランティアサークルで出会ってからもう四年目になる。ずっといいなと思っていて、ずっと言い出せずにいて、思うままに色事に耽る彼女の話をいつも聞いていた。

 聞くだけだった。

 頭の奥が、炎天下に置いたバターの塊みたいにドロドロと溶けるようだった。べたついて不快だった。

 けれど、仕方ないよな。香奈は、大学に蔓延る他のつまらない女たちとは違って、自由で、我が道をゆくやつだったから。

 だからおれは香奈を肯定した。


「それ香奈は悪くなくね? 適当な理由をくっつけて浮気するようなやつだろ。別れて正解じゃん」


 おれにしとけよとは言えなかった。

 いまにして思えば、同じような意味の言動ではあったけど。


「でっしょー? くそぉ、今度はもっとマシな男を捕まえたいよ……優しくて、セックスのうまくて、平たい胸でも愛してくれる男……」

「がんばって探せ」

「どこにもいないよそんなの」


 虚しいことに、香奈の目におれは入らない。したこともないセックスがうまいわけがないしな。

 そうだ。おれは童貞だ。

 彼女の話はすべて、対岸の情事としか映らない。

 中高で恋愛をしてこなかったやつはどうも拗らせるらしいということを、おれは身をもって体感していた。

 大学になったら自動的に卒業できると思ってたよ。たぶん高校の時も同じこと思ってた。

 それがどうだ?

 おれは踏み出すことも出来なくて、好きな女が誰と付き合って別れたとか、誰と一夜の過ちを犯したとかそんな話を聞いて、仄かな興奮と鈍い敗北感を抱えている。

 まぁいいさ、いつものことだ。

 そうして適当にガス抜きされた香奈はまたどこかの男とイイ感じにえっさほいさすることになるだろう。

 ああまたこっち側か。

 送り出す側なのか。

 そう思っていた。


「りょーたぁ、お前はどうなんだ」


 アルコールで顔を赤らめた香奈が身を乗り出して胸ぐらをつかんでくる。


「なにが」

「だぁらぁ、乳の小さい女を愛せるかって聞いてんだよ」

「愛せます、愛せます」

「ほんとか? ほんとうだな?」

「あぁ本当だよ」


 おどけて言ったけれど本気だった。趣味で言えば大きいほうが好きだ。けど別に胸の大きさで香奈を好きになったわけじゃない。


「嘘だったら、りょーた、おぼえとけよ。地獄まで追いかけてやる」

「いっしょに地獄に来てくれるんだ、ありがとう」


 とかなんとか言ってたら、おれの部屋に香奈が来た。ここが地獄なのだろうか。

 別に香奈が来るのは初めてじゃない。おれの家は、サークル仲間たちの宅飲み会場だったから。

 でも。

 二人きりでベッドに転がっている。

 これは初めてだ。

 いつもは部屋主のおれは追い出されて床で寝ているのに。今日に限っては「こっち来ていいよ」なんて言うので、おれの寝床だぞとか文句を言いながら隣に横たわった。

 指先が触れあって、思わず引っ込める。


「なに、良太。きんちょーしてんの」


 ウケる、と香奈は笑う。


「してねえよ。別にないよ、何とも」

「何ともないと困るんですけど。平たい胸でも愛してくれるんでしょ」


 香奈がそっと指を絡めてくる。

 正直、もうこの辺で勘弁してくれって感じだった。頭も下半身も爆発してしまいそうだった。

 でも、経験豊富な香奈に比べてなんの経験もないおれは、侮られるのを恐れて平静なふりをしていた。いっつもそうだった。

 だってそうだろ?

 おれは気にしてませんよって顔でもしなきゃ、好きな女が色んな男と寝た話を聞けるわけもない。そうでなきゃ、頭がおかしくなってしまいそうだったんだから。


「りょーたって意外と筋肉あるんだ」

「高校までバドミントンしてたから」

「ふーん。なんか、生意気。りょーたのくせに」


 あの香奈が、今はおれの上に覆い被さっている。香奈はおれの手を握って、腕を触り、体に触れてきた。

 どくどくと心臓が脈を打つ。

 おれは、ついに憧れていた女で童貞を捨てた。

 ぎこちなく、でも夢中で腰を振った。嬉しかった。香奈の細い体が自分の腕にすっぽりと収まる感じが心地よかった。腰を振る、喘ぐ、汗が舞う。世界が万華鏡のようにきらきらと輝いている。おれに見向きもしていなかった女が、おれのものになった。

 気分がよかった。


 それきりおれは香奈に興味を失くした。


 あれだけ惚れこんだ女だったのに、一度やってしまえばなんだかそういうもんかと思ってしまって。彼女のことが、そこら辺に掃いて捨てるほどいる、つまらない女としか思えなくなった。

 おれは、バラバラにした万華鏡を思い出した。ひどく陳腐で、つまらなかった。

 おれは香奈と距離を置いた。香奈ははじめ追いかけてきたが、おれにもう気がないことが分かったのか、そのうち疎遠になった。

 香奈は変わらずどこかで男を引っ掛けて、その愚痴を別の男に話しているのだろうが、おれにはもう、どうでもいいことだった。


 それからおれは大学を卒業して、普通に就職して、普通に結婚をし、またこの町に戻ってきた。

 肴でも並べて机を賑やかにするかと店員の姿を探すと壁に張られたポスターで目が止まる。

 色気のある女優がビールを飲んでいた。

 ビールか。

 あの頃は美味しくなかったんだよな。

 ……。


「生一つ」


 冷たいジョッキが運ばれてきた。好かなかったビール。良さの分からなかったビールだ。

 両手で抱えるように持ち、口をつける。ごくりとひと口。琥珀色の苦味が通り過ぎていく。


「あぁ」


 不思議だ、なぜかうまい。

 ちゃんとうまいと感じられる。苦いけどうまい。なんだよおいしいじゃん。

 店内を見渡す。

 客の笑い顔がよく目についた。

 学生街の安くて狭い居酒屋だ。どこにでもある、普通の居酒屋だ。特別なメニューもなければ貴重な食材がウリなわけでもない。

 それでも彼らは楽しげだった。


「ああ、そうか」


 おれは、急にすべて納得がいった気分になった。

 いまにして思えば、つまらないのはおれだったんだろう。

 たしかに香奈は、取り立てて素晴らしい女じゃなかった。よく居る、性に奔放で愛にすがる女子大生だった。

 けれど、それの何が悪かったのだろうか。

 どこにでもいる普通の──おれが好きになった女だった。

 万華鏡をばらして幻滅するのは簡単だ。

 おれはそこで立ち止まってしまった。

 筒と鏡と偽物の星を集めて、もう一度覗きこんで、キラキラと変わる光景にまた笑うことができればよかったんだ。

 ビールを飲み干し、席を立つ。

 帰って、久しぶりに妻とセックスしようと思った。

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筒と鏡と偽物の星 宮下愚弟 @gutei_miyashita

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