第22話 心の内にあるもの 1
俺はやりきれない気持ちで寝台に寝転がった。支柱の模様に結婚前に刻んだ戒めが目に入る。
「寝台ハ私ヲ試ス。
其ノ器二アル其ノ精神ヲ。
孤独ハ私ヲ
神々ノ寝台ニ入レバ楽園ハ閉ザスダロウ」
孤独は私を
*
元々、どんな相手であれ夫婦関係を持つつもりは無かった。子どもは望まない。結婚は貴族の義務で避けようがなく、子が産まれなければ数年で離婚は成立する。つまり数年の我慢だ。我慢をすれば何度も結婚と離婚を繰り返すことになっても爵位は保持され、産婦人科医を続けることができる。
だがどうだ?
相性98%と宣言を受け、まぶしい笑顔を見せたアナ。素直に喜ぶ彼女は愛情を注がれ、順風な人生を過ごしたのだと思ったが違っていた。壮絶な療養生活の果てに勝ち取った。それは敬意を払うべき過去だと思う。それでも俺は子どもを望まないと告げた。
『つまりわたくしはお飾りの妻として相性が98%だと仰りたいの?』
アナから向けられた光のない目は、箱庭の隅で死んだ下級生を思い出し、俺は冷え切った関係を作ろうと冷たい声で退けたはずだった。
『それなら私の事はアナと呼んで。夫にしてもらいたい事リストの1つめだから』
身勝手な俺の要求に彼女はめげす、対話のテーブルを用意した。俺は心が引き寄せられるのを感じた。今思えばアナは最初から純粋で優しい
無欲な彼女への償いに何でも買うと宣言した。だが高い宝石やドレスではなく茶菓子にスコーンと杏ジャムを頼む、可愛い欲望に俺は内心微笑ましく思った。
それが彼女の経験からくる本気の望みだと旅行で知ったときは、俺は一生スコーンと杏ジャムを食べさせてやろうと誓った。
十二回も受胎テストを彼女は受けてきたのだ。魔術の記憶創作による妊娠出産経験は、お産への恐怖を軽減すると推奨する医師もいる。だが俺は否定派だ。肉体に刻まれる生々しい体感と子の不在。気を病んで治療院通いする女性たちを知るからだ。
その上、彼女の魔脈から見えた体中の臓器にある魔石の数の多さだった。おそらく出生時から手術を繰り返し、6年ほどは平行して受胎テストも受けている。その精神的負担は産婦人科医をしていたからこそ想像ができた。
スコーンと杏ジャムが彼女を支える味だったことも容易に想像ができたのだ。
俺には5歳から8歳の記憶がない。脳は酷い記憶を忘れて心を守る。だが受胎テストは本番に備える意味があるから、基本的に忘れられない体験を脳に焼き付ける。生死を彷徨う大手術と、擬似的に子を身ごもる経験を彼女は忘れていないはずだ。
『アナスタシア、君はもう身体をいじらなくて良いんだよ』
全身全霊をかけてアナを守りたいと思った。だがアナスタシアは俺から視線をそらせた。
『……まだ頑張らなくちゃいけないわ。健康になれば次は人並みになる事が目標に置き換わるの……』
子供を望まない俺が側にいる限り、彼女は人並みになれない。王室は繁殖の義務を遂行するまで離婚を禁じている。避妊も許されていない。彼女の悲痛な魂の叫びが俺に突き刺さった。
ニール、癒してやれよ。自制できる男だろ?
俺の本能の中で悪魔がささやく。同情があったのかもしれない。理性は欲望に支配されかけたが、急患に救われた。
翌朝アナが俺のジャケットに包まって眠る姿はいたたまらなかった。悪いと思いつつも欲望に打ち勝つためにソファーで眠り、目覚めると彼女は怒っていた。
そのほかで満たすしかない。彼女の好みのままに。俺は魔法で妖精に彼女好みを尋ね「水槽、命、水槽、命」と告げられたのでアクアリウムに行き先を決めた。でも彼女には水槽がトラウマだったようだ。それでも仲直りでき、俺たちはマーケットに向かったが、あんなことになるとは……。
労働者階級の本屋は明らかに知識を持たず、薪代わりの紙の本で日銭を稼いでいた。文化司書の職能を持つ彼女からすれば許し難い行為のはずだが、アナは男に助言した。
アナを侮辱した男に腹が立ったが、アナが彼に敬意を払い続けていたので怒りは堪えた。自動人形の騎士に魔術を行使して庇った時はさすがに我を忘れた。
せっかく生き抜いた命を、侮辱してきた男の為に容易に危険にさらすお人よしに、俺は無我夢中でホテルへ向かう。わずかであれ石化は最悪命取りだ。
急ぎホテルへ向い、石化場所を確認するために彼女のドレスを脱がせる。
『大丈夫よニール……』
裸のアナスタシアに心配されているのは分かっていた。
アナは俺が守ると言い聞かせても厄介な欲望が満ちてくる。色白の肌に黒髪を落としたアナは艶かしく、顔を赤らめ身じろぐありさまは俺の内にある生存欲求を刺激した。
シャワーに逃げて冷静になると今度は不安がふくらむ。数%の確率で見えない所が石化した症例があったと思い出し、治療院での検査入院も提案するが彼女は取り合わない。
本人が同意しなければ検査はできない。最大限に妻の意向を汲むと決めたが、落ち着かない。産婦人科医は数値に敏感だ。
今思えば命を守るためとはいえ酷いやり方だったと思う。
『アナスタシア、ひとつ頼みがあるんだが聞いてもらえないか?』
彼女ではなく、俺自身の安心のため、彼女の好意を利用したんだろう?
悪魔が俺の横で微笑んでいる。
黙れ、医者としても夫としても妻の健康管理は当然だ。衛生手袋に小瓶の潤滑剤を落とす。だが悪魔はささやく。
『ニール、無垢な彼女に教えてやれ。生殖だけが全てではないし触診だけが全てでもないぞ』
アナの潤んだ瞳は完全に俺の理性を吹き飛ばそうと試みた。それでも医者であり続けた俺にアナは怒り、説明も聞き耳を持たず、叫んだ。
手汗で脱げない衛生手袋をようやく外し、ハグしてなだめようとする腕をすりぬけ、彼女は酒をラッパ飲みした。クッションを投げつけられ、フラつく足でソファーを重ねるアナをさりげなく手伝うとそのまま倒れるように滑り込む。
裏返したソファーはまるでヤドカリだ。隙間に身体を滑り込ませ気絶するように眠ったアナ。側に座り、隙間へ手を伸ばしてアナの手のひらを握る。
握り返されて俺は息をのむ。初めて王城で差し出した手を握られた高揚感を思い出した。
まいったな、これは。
俺は君に心から惚れているのか。
ソファーの下をそっと覗きこむが、手を握られたアナは幸せそうに眠っているだけだった。俺は柔らかな手の内に温もりを感じてソファーに持たれて眠った。
*
だめだ。俺は彼女を自分のものにしたくなっている。だが、彼女と繋がったら決定的に世界が変わる。俺は支柱の文字に視線をやる。
「神々の寝台に入れば楽園は閉ざすだろう……か」
だから俺は書斎に降り、
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