010


 大きく縦に伸び上がったマリが、メイの視界いっぱいに入り込んでくる。まるでその瞳を窺うように幾本かの触手を揺らめかせながら、同時に別の幾本かを地に這わせ、地面に置かれっぱなしだった携帯糧食とペットボトルを掴む。昼食にと取り出され、しかし飛び込んできたニュースにすっかり存在を忘れられていたそれのうち、マリはしっかりと一本の四分の一だけを包みから取り出し、メイの口元へと押し付けた。


「んむぅ」


 固く閉ざされていた唇に携帯糧食と、僅かにマリの触手ゆびさきのぷにぷにが触れる。音もなく、しかし有無を言わせぬ雰囲気でぐいぐいとやってくるマリに、メイの唇が思わず緩んだ。


「むもっ」


 すかさずねじ込まれたカロリーの塊をゆっくりと咀嚼する。とはいえわずか一欠片、そう時間もかからずに嚥下してしまえば、それを見守っていたマリが、今度はペットボトルのキャップを難なく開け差し出してくる。今度は自分の手で受け取って二口、いや三口飲んでから、メイは小さく呟いた。


「……あんた、わたしより賢いよ。ホントに」


 メイが持ったままのペットボトルのキャップを閉めながら、マリは当然とでも言わんばかりに鷹揚に触手をくゆらせている。その動きを目で追いながら、メイは落ち着きを取り戻した頭で改めて考え始めた。


(……そうだ。わたしがわたしに罪をおっ被せてどうする。元凶はサフラだし、わたしは被害者。ムジナには悪いけどわたしは……わたしは──)


 ──わたしは悪くない。


 自分がそう断じなくてどうするのかと、強く心に刻みつける。或いは、もしかしたら、救助を急かした自分にも非はあるのかもしれないが……この極限状態でそんなことにまで頭を悩ませていたら、その自分自身が潰れてしまう。だから、わたしは悪くない。


 そう割り切った途端に、メイの心はすっと軽くなった。心が軽くなれば次は、もっと現実的な問題について考える余裕が出てくる。


(地上からの救助が絶望的になったのは事実。水も食料も、もう二日分もない)


 助けは来ない。また、基本的に『パイオニア』はダンジョン内に長期間滞在するような踏破計画を組むことはなく、故にメイのポーチには食料や水が多く入ってはいなかった。どうにか生きながらえるのも限界が近い。このままカメラの前で座しているだけでは、ただ死を待つのみになってしまう。だったらいっそのこと……と、メイはちらりと、初日以来一切足を踏み入れていなかった通路の方へと目を向けた。


(そうだ。もうこれしかない。やるしかないんだ。頼れるのは自分自身と──)


「──ねえマリ、わたしがあの向こう側に行くって言ったら、あんた手伝ってくれたりしない?」


 口をついて出たのは問いかけで、しかし内心、メイには何故だか確信があった。真っ黒いこいつは、自身と目的を同じくしているのではないかという、確信が。


「……おっけ、決まりだね」


 うねうねと蠢く触手仕草を疑いもなく肯定と受け取ったメイは、一つ大きく頷いて。ここらでようやく、完全に置いてけぼりにされていた浮遊カメラリスナーたちの方へと意識を向け直す。体を元通りにしたマリの向こう側でコメント欄は変わらず荒れ狂っているが……メイの目はもう、それに過剰に囚われることはなくなっていた。


「えーっと、まず……ムジナの件は、お悔やみを申し上げます。もしかしたら、わたしが救助を急かしたのも一因だったのかもしれない。だけどそれについて少なくとも今は謝罪とかはできない。元凶はサフラだっていうわたしの主張は変わらないから」


〈強気だねぇ〉

〈まあ実際そうだし〉

〈言ってることが本当ならな〉

〈人死の遠因になっておいて謝罪の一つもないってマジぃ?〉

〈サフラさんブーメラン刺さってますよ〉

〈まあこれに関しては事実が明らかにならない限りは何とも言えんだろ〉


 賛否交々なコメントを受け流しつつ、ムジナについての話はこれだけで切り上げる。メイにとってはより重要な、自分の命に関わる決意表明があるのだから。


「ただ、救助が実質的に厳しくなったのは受け入れざるを得ないと思ってる。流石にもう、早く助けに来てなんて言えない。でも一方で、ここから長期間生き延びるだけの物資はない」


 ならば命を賭してでも、残された僅かな可能性を模索しなければならない。何もしなければどうせ死ぬのだから、命など賭け金としてはむしろ安いものだろう。座ったままゆっくりと体を傾け、メイはダンジョンの奥へと繋がる通路へと顔を向けた。その動きをカメラに追わせ、一本だけ存在する道筋を視聴者たちにもしかと見せつけてから、はっきりと宣言する。



「だから……この深淵層を踏破して、転移ポータルで地上に帰る」


 

〈は?〉

〈?????〉

〈はぁぁぁぁぁぁ??????〉

〈とーは?〉

〈聞き間違えかな……いま深淵層を踏破するって言った?〉

〈何いってんすかこの人〉

〈【悲報】S級探索者ダイバー、狂う〉

〈まあ狂うのもしゃーないっちゃしゃーないが……〉

〈良いんじゃない?面白そうだし〉

〈深淵層の攻略配信って世界初では?〉

〈そんな貴重な情報、普通は秘匿されますし〉

〈いくらS級と言えど単騎だし片腕無くしてるし秒で死にそう〉

〈まあそれはそれで〉

〈超絶美少女が志半ばで無惨に死んでいく瞬間はみんな大好物だからな!〉

〈すき♡私それすき♡♡〉

〈“美少女”じゃなくて“““美女”””な〉

〈いつものダンハブ民〉

〈いつダン〉


 例によって凄まじい速さで流れ落ちていくコメントたち。いい加減ビビることも無くなっていたマリが、それでも触手の一端をピクリと跳ねさせるほどに、その勢いは常軌を逸したものだった。結局のところ、常に配信に張り付いているようなダンハブ廃人など刺激的なコンテンツを求めるろくでなしの集まりである。より直接的で面白そうなものが見られるとあれば、ムジナの死の責任の所在など一瞬でどこかへ流されていってしまった。


「わぁーかってるよ無茶だって。でももうこれしか生き残る道はないんですぅーっ」


 唇を尖らせるメイが万全の状態で、ここがダンジョンの中でなければ、或いはこともできたのかもしれないが。一切の損壊を受け付けない──拳をめり込ませて張り付くこともできないダンジョン壁製の垂直孔を三角跳びだけで数km登り切るのは、さしもの物理特化S級探索者ダイバーといえども不可能であり。しかしダンジョン内であるならばつまり、階層の最奥に辿り着くことができれば、地上へ一発で帰還できる転移ポータルが存在するはず。


 突如として自然発生し。しかし自然の産物としては有り得べからざる迷宮の形を取り。何をしても傷一つ付かない物質でできていて。人間ごとき容易く屠ってしまう化け物モンスターたちが住み着いている。しかしそれらを下して得られる恩恵は大きく。おまけに、階層を踏破すれば帰り道まで用意してくれている。


「やってやる……最前線引退前の、最後の大仕事ってやつ」


 以ってダンジョンは、“神の試練”などと称されており。

 その出現以降、今では世界人口の約98%が神の存在を信じるようになっていた。

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