独りの言い訳

萩乃 玲

第1話

 残業もなく、定時に職場を出た。9月になっても日中はうだるような暑さが続いているが、夜気は生温さの中に秋の気配を確かに含み始めている。

 仕事帰り、独りで行きつけの店に寄って、本を読みながらゆっくり酒を飲むというのが習慣となっている。特段、洒落た店ではない。ただ、帰り道の途中にあって寄りやすいだけだ。

 独りの時間が好きだ。誰に気を遣うでもなく、自分の好きなように過ごせる時間は何よりも大切だ。仕事で散々気を遣うんだから、プライベートくらい誰に気を遣うことなく過ごしたいと考えるのは至極当然の感情ではないだろうか。

独りでいることは淋しいことだという考えが世の大方を占めているが、それには大きな声で異議を唱えたい。人が我慢して労働をするのは金を稼ぐためであり、金は自由を実現するために必要なものだ。そして、独りだからこそ自由を最大限享受できる。だから独りというのは決して、かわいそうな状況などではない。選択的ぼっちというのは、幸福論的な観点からも正しい選択と言えるだろう。ただし、これは通説ではない。

 

 店に着き、いつもの席に座って料理と酒を注文し、鞄から読みかけの本を取り出してぱらぱらと捲る。2週間くらい前から読み始めたものの、まだ中盤くらいまでしか読めていない。レビューを見て評判がよかったから買ったのだが、突拍子のない設定についていけず、思うように読み進むことができないでいた。やはり、世間は信用できない。

 本の内容に集中できていないせいか、ほかの席の会話が耳に入ってくる。


「ねえねえ、日曜日遊園地行こうよ」

「えー、でもまだ日差し強いし、休日だからすごく待ち時間も長いんじゃないかな? もうちょっと秋らしくなってからの方がいいんじゃない?」

「えー、行こうよー。2人でいれば暑さも待ち時間も平気だよ。それとも、行きたくないの?」

「うーん、じゃあ行こうか。チケットは買っておくから」

「やったー。この前新しい服買ったから、着ていくね♪」

 

 どうして人間にはノイズキャンセリング機能が備わっていないのだろうと真剣に考えたくなった。2人でいれば平気理論については、ぜひ学会で発表してもらいたい。

こういう場合、どうせ行きたいといった側が暑さや待ち時間の長さに耐えきれなくなってイライラしだし、空気が重くなっていくというのがよくある展開だったりするんだろうなと想像を巡らし、最悪な気分になった。世の中、不条理に満ちているなとしみじみと思う。


「先輩、待ちました?」

 ふいに耳元で甘い声音の囁きが聞こえた。

 反射的に体がびくっとした。振り向くと、栗色のウェーブかかったボブヘア、猫のような丸い目、いたずらな笑みを浮かべた、職場の後輩の七瀬結衣が立っていた。

 完全に不意を突かれた。驚いた表情を後輩に見せてしまったのが何だか悔しい。

「お前、普通に話しかければいいだろ。それに待ってないし、そもそも待ち合わせなんかしてないだろ」

 イライラをたっぷり込めた口調で俺は答える。

「露骨に嫌そうな顔をするのやめてくださいよ! それに、冗談も通じないと女性にモテませんよ。すみませーん、ハイボールと唐揚げくださーい」

 七瀬は遠慮なしの様子でちゃっかり俺の向かいに座り、満足げに笑っている。

「おい、どうしてちゃっかり同席してるんだ?」

「え、だって誰かと一緒の方がお酒も美味しいじゃないですか? だから少しだけ先輩に付き合ってあげます」

 なんでしょうがないなあって顔してるんだこいつ。何かと絡んでくるが、ちゃんと俺のことを先輩と認識しているんだろうか。

「余計なお世話だ。そんなに奉仕したいなら合コンでも参加して笑顔でも振りまいてきてやれよ。総務の鈴木がお前に合コン断られたって嘆いてたぞ。俺は一人でゆっくり過ごしたいんだ。時間外まで部下の相手をしなくちゃいけないなんて。残業代もらえないかな。そもそも日本人は働きすぎなんだ。給料据え置きで週休3日、いや、4日にならないだろうか」

「はいはい。愚痴ばっかり言ってると、お酒も不味くなっちゃいますよ。それじゃあ、気を取り直してかんぱーい♪」

 七瀬が運ばれてきたジョッキを受け取り、近づけてきたので、釈然としないが俺も礼儀としてジョッキを合わせた。

「てか、なんでここにいるんだよ」

 俺も七瀬も最寄り駅は同じだったが、七瀬が住んでいるのは逆方向だったはず。

「えーと……たまたまです」こいつ、すっと目を逸らしやがった。

「大体お前、結構な頻度でこの店来てないか? 今週だってここでお前と遭遇するの2回目だぞ。もしかして仕事のストレス? だとしたらちゃんと相談しろよ。それで体調崩したら俺が注意されるんだからな」

 そういうところ課長めっちゃ細かいんだよな。周囲の様子とか俺にしょっちゅう聞いてくるし。怒られてるわけじゃないのに、なんか悪いことして尋問されてる気分になるんだよなあれ。

「いいじゃないですか……好きなんだから。まあ仕事じゃないですけど、大きなストレス抱えてるのは否定しません」七瀬はぷいっとそっぽを向いた。

 この店を七瀬に教えたのは俺だった。おすすめの店について話題になったときに、行きつけの店ということでここの名前を出してしまった。それ以降、たびたび七瀬と遭遇することになってしまった。教えるんじゃなかったと後悔している。

「若いんだから独りでこんな店来ないで、彼氏でも作ってもっとおしゃれな店行けよ。受け身でいたらいい男捕まえられないぞ。男は女が思っている以上に繊細で不器用で臆病なんだ」

「加えて察しも悪いですしね」

 七瀬はどこかイライラした口調で、ハイボールをぐいっと呷った。きっと何か思い当たることがあるのだろう。察しの悪い男に惹かれてしまうなんて、こいつも男運がないなと同情する。しかし、そのイライラの矛先を俺に向けるのは筋違いだと思う。

「そういう先輩だって、1992年11月1日生まれ、さそり座、血液型はA型。30歳独身、彼女なし、モテる気配もなし。やばいじゃないですか」

「やばいって、言い方な。それに、前半の誕生日と星座と血液型は関係ないだろ!」

「うっかりです」

 わざとらしいキョトンとした表情がイラっとくる。そういえば、俺の誕生日っていつ話しただろうか? 覚えていないがまあいいか。

「そもそも、俺は彼女がいないんじゃなくて作らないんだ」

 俺は憮然と答えた。彼女がいないというのと、作らないというのでは天と地、いや、それ以上の差がある。

「まあまあ、いいじゃないですか強がらなくても。事実は否定するほど見苦しいですよ」

 なかなか揺さぶってくるじゃないか。こういう時、感情的になったら相手の思うツボだ。先輩として聞き流し、礼儀正しく成長してもらうために、黙って仕事を多めに振ろう。しかし、俺のことを理解しないまま、勝手にレッテルを貼られているのはとても不本意だ。

「そもそも恋愛なんて、客観的に見れば創作物の見せ合いだ。相手にいかによく見られるか取り繕って、互いの虚像を押し付け合う。ずっと気は遣うし、相手に気に入られている自分を演じ続ける。想像するだけで精神がすり減っていくな」

「うわ、どんだけ枯れてるんですか先輩。さすがの私も引きますよ。それに、恋愛の酸いも甘いも味わい尽くした有識者感出してますけど、大して経験してないですよね?」

 七瀬の疑問は無視して俺は持論を続ける。

「対して、独りでいるというのは論理的にも正しい選択だ。気を遣うことはないし、自分の好きなように時間やお金を使える。自分の幸せだけを追求できる。実に、自分に正直な生き方だ。それに最近は、チャットAIが話し相手になってくれるし、便利な時代になったもんだ。つまり、今や独りでいることに隙はない」

「隙ありまくりですよ。先輩には本当に呆れます。好きな相手と一緒じゃないと得られない喜びもたくさんありますよ。先輩、そんなんじゃ淋しく齢をとっていって、相手が欲しくなった時には誰も相手してもらえなくなっちゃいますよ」俺の顔をちくちく刺すように、じとっとした視線が向けられる。

「余計なお世話だよ。俺は満足しているし、誰にも迷惑かけてないんだからいいだろ」

「迷惑ですよ……ほんとに……」

 七瀬は残っていたジョッキの中身を一気に飲み干して、視線を落とした。

「作り物だっていいじゃないですか。ドキドキしたり、ワクワクしたり、その感情は本物だと思いますけど。それに、例え独りであっても自分に嘘をつかないっていうのは、すごく難しいことだと思うんですよね。先輩は本当に、嘘偽りなく自分に正直ですか?」

 トーンを落とした静かな声。輪郭のはっきりした言葉が頭の中で反響する。

 いつものように、軽口を返せばいいはずなのに、その問いにどうしてか即答できなかった。大きな瞳が真っ直ぐ見ている。言葉が出てこず、思わず視線をはずす。

 そんな俺の様子を見て、七瀬はふっと頬を緩め、「そんな真剣に考えないでくださいよ」といつもの陽気な声音で言い、俺の肩をぽんぽんと叩いた。

「なんだかんだ言って、先輩は真面目で面倒見いいですよね。お願いされたら断れないし、よく見てくれてるし。この前もプレゼン資料手伝ってくれたし……めっちゃ嫌な顔してましたけど」

「情けは人の為ならず。いつか俺が困ったときに遠慮なく労働力として使いまわせるように、できる時に貸しを作ってるんだよ。特にお前、覚えておけよ」

 さっきの動揺を繕うように、皮肉を込めて言う。

「え、いや、あははは。先輩、細かいことは飲んで忘れてください。それに、完璧な後輩より、少し手のかかる後輩の方が可愛くないですか?」

「仕事に可愛さなんていらん。強いて言うなら、ミスなくやってくれるやつが一番可愛い」

「はいはい。気を付けます。さてと……」七瀬は鞄を持って立ち上がった。

「もう帰るのか?」

「はい、先輩の大切なぼっち時間を邪魔しすぎちゃいけないですし、今日はここまでにします」

 言い方はあれだが、俺への配慮ができるとは、こいつも少し成長したんじゃないか。

 ……ん? 今日は??

「駅まで送らなくて大丈夫か?」

「いえいえ、お気遣いなく。そういえば先輩。明日暇ですか? 暇ですよね? そうですよね! 私いろいろ買い物があって、荷物が多くなっちゃいそうなので、もしよかったら先輩手伝ってくれますか? 手伝ってくれるんですね! 嫌な顔しないで快諾してくれるなんて、先輩すてき♪」

「おい、俺に話をさせないで、会話を自己完結させるな。そんなの嫌に決まってるだろ。なんで休日にそんなことしなくちゃいけないんだよ。大体・・・」

「先輩は……私と居るのは嫌ですか?」

「嫌とかそういうんじゃ……」

「それなら、よろしくです♪」

 にっこりと笑う七瀬の顔を見ると、文句を続ける気がなくなった。

「じゃあ、先輩。明日10時に駅前待ち合わせでお願いします! では、お先です」

 七瀬は足早に店内を横切って、店の扉を颯爽と出て行った。


 いつの間にか、客も増え、そこそこの賑わいが生まれていた。なのに、騒がしい奴が去ったからか余計に自分の周囲だけが妙に静かで隔絶されたように感じる。

 気分を変えて飲みなおそうと思ったが、やめた。

 残っている料理をつつきながら、七瀬に言われた言葉を頭の中で反芻する。

 自分の時間が大切だから独りでいるというのは嘘じゃない。でも、誰かと深く関わろうとしないのは、相手に踏み込むのも踏み込まれるのも、怖いからかもしれない。独りでいれば誰も傷つけることはないし、傷つけられることもない。自由さや気軽さの中でしか、相手と関わることができない自分はとても弱い人間で、そんな自分から目を逸らすために別の理屈をつけ、自分を正当化しているのかもしれない。

 

 自分がいるのは日陰の世界。日陰に慣れている自分には、陽だまりの世界は眩しすぎる。でも、いつか、陽だまりの世界にも行ってみようと、立ち上がって歩き出すことはあるだろうか。それとも、いつまでも日陰で座り込んでぼんやりしている手を強引に引っ張って、陽だまりに連れて行こうとするお節介がいたとしたらどうするだろう。その温かさをうまく受けとめることができるのだろうか。


 思わず感傷に浸っている自分に苦笑する。俺らしくない。大して酒も飲んでいないのにふわふわして、妙な気持ちだ。今日の俺はどこかおかしい。こんな日は、風呂に入って早く寝てしまおう。

 強引に押し切られてしまったが改めて考えると、休みの日に午前中に起きなくちゃいけないなんてげんなりする。なんだかんだ頼まれたら断れないこの性格が恨めしい。

 レジに伝票を持っていくと会計には俺が頼んでいない、ハイボールと唐揚げの料金も含まれていた。

 明日、七瀬に会う理由がもう一つできた。

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