第15話 最終話 6番目の人物
「すごい、信じられない。こんな、こんな仕掛けがしてあったなんて。ああ、レオナルド、あなたは、あなたは一体何者なの?」
私は完全に圧倒されていた。
「そうよ、きっとまだあるんだわ。この絵には、謎が、解き明かされていない多くの謎が」
一度は見えていたような気がしたレオナルドの背中が、またはるか彼方にまで遠のいてしまったような、そんな気がした。
「ああっ! 姉さん」
「どうしたのlua?」
「額面をハンカチで拭いたら“翼”が消えちゃった」
「なんですって?」
あわてて額面をみてみたが、いままであったはずの“翼”がなくなっていた。
「これは一体……」
「埃が表面にいっぱい溜まっていたから、きれいにしてもっとよく見ようと思って、そしたら」
「埃!? つまり、“埃の層”ってこと?」
「ごめんね、姉さん」
「何を言うのlua、これは新たな発見かもしれないわ。つまりこの絵にはさらに何かを薄く重ねなければならないってことなのかも。そうか、さっき翼が虹色に見えたのは“構造色”の原理を利用しているからかもしれない」
「コウゾウショク?」
「微細な表面構造や薄膜による光の干渉で生み出される色のことよ。例えばDVDの裏面とか、それ自体に色はついていないけれど、鮮やかに色づいて見えるでしょ」
luaはうつむいて返事をしなかった。しかし私は、そんな妹をよそにして、とりあえず状況を整理しようとした。
薄膜による光の干渉が起きていたのだとすれば、この場合の薄膜として考えられるのは、“埃の層”、額縁の“透明シート”、そして透明シートと絵との間にある“空気の層”くらいだ。これらのすべてが必要なのか、それとも単独でいいのか? もしくは組み合わせる必要があるのか? あるいはまだ他に何かの層が必要なのか? さらにそれらの層の厚みはどれくらい? いや、もしかしたら照射する光の種類や強さなんかも関係しているのかもしれない。
どうすればあれを再現することができるのか? 埃のかぶった額縁など、この家にはもうない。もう一度額縁に埃が溜まるのを待つしかないの? でもそれだと時間がかかりすぎる。
「lua、あなた、画像処理ソフトとかを使ってパソコン上で再現できない? 美大でデジタルアートも勉強してるでしょ? ちょっと、lua、聞いてるの?」
「……今度は天使の翼か、次から次へと、よくやるわね」
少し聞き取りにくかったが、妹は確かにそうつぶやいていた。
「姉さん、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「なに?」
「この絵はいつごろ完成したの?」
「え? いいえ、ネットで調べたかぎりでは、どうやらまだ完成していないらしいわ[注1][注42]」
「未完!?」
「だからかもしれないけど、結局、依頼人であるバルトロメオには渡していないそうよ[注1][注43]」
luaの目つきが一瞬、鋭くなった。
「……なにやってんの? この人」
「は?」
「完成しなかった? 渡せなかった? 当たり前じゃない! こんなに手の込んだことをいろいろやってて、まともな形で終わるわけない! っていうか、そもそも渡せるわけがないわ。だって、おそらく元々のリザさんの顔とはもうかなり違っているだろうし、旦那さんに『誰だこの女は? これは私の妻ではない!』とか言われて突き返されるのがオチよ」
「ちょ、ちょっと、突然どうしたのよ?」
「姉さんの話だからおとなしく聞いていたけど、もう我慢できない」
それまでの態度とはうって変わり、妹はその怒りをあらわにした。
「lua、どうしたのよ、急に!」
「姉さん、さっき言っていたよね? この絵の依頼主である旦那さん、確かバルトロメオさんだっけ? 新居引越しと子供の出産を祝うためにレオナルドに頼んだって」
「ええ」
「私は、それは表向きの理由で、本当は奥さんのリザを喜ばせたかったんだと思うよ。だってそうでしょ? 『この私の美しい妻を絵にしてくれ』って言っているようなものじゃない」
「た、確かに、そうかもね」
「そこまでしてもらって喜ばない女性なんている? 奥さんだってきっと絵の完成を心待ちにしていたに違いないよ」
妹は、さらに鋭い視線を私に向けてきた。
「そういう事情があるなら、私だったら、できるだけ早く仕上げてさっさと絵を渡すわ。そのほうが、バルトロメオもリザも喜んでくれるだろうし、なにより私が、少しでも早く二人の喜ぶ顔をみたいから。もし私がプロの絵描きなら、依頼人やその絵に関係する人たちが喜んでくれたらそれで十分よ!」
私は何も言えなかった。妹から見れば、きっと私はあっけにとられたような顔していただろう。私はハッとして、口があいたままになっているかもと右手で口を隠した。
ポーン、ポーン、ポーン
妹の携帯のアラーム音が鳴った。
「あっ、そうだ、今日はバイトのシフトをいれてたんだ。もういかなきゃ。“翼”の画像処理の件は、明日学校にこれをもっていって先生に相談してみるわ。じゃあね」
妹は、ドアのそばにある姿見で髪の毛を手ぐしでさっと整えると、額縁をもってそそくさと部屋を出て行ってしまった。
私は一人、部屋に取り残された。
たまに、本当に極たまにだが、妹は、舞い落ちる木の葉を一発で射抜く矢のような、そんな鋭い言葉を言い放つときがある。
確かに、妹の言うことにも一理……いや、むしろ妥当といえるかもしれない。そもそも、あくまで絵の仕事を請け負ったという立場を考えれば、依頼主の注文内容や納期を守るのは当然のことだ。
もし当時のバルトロメオがこの絵に関するこれまでの事情を知ったとしたら、『なぜそういう頼みもしないことを勝手に私の妻の絵で行うのだ? やりたいのならどうか他でやってくれ!』と言って激怒したかもしれない。
私は、自分のデスクの椅子に腰を下ろした。
なるほど、やはり、解釈の仕方は人それぞれにあるのだなと、かすかに覚える疲労感と共にあらためて思い直すと、ひきつづき『モナ・リザ』のことを考えていた。
結局、この絵には「聖母マリア」、「イエス・キリスト」、「リザ」、「サライ」、そして「大天使聖ミカエル」の5人が重ねられていたということになる……いや、ちょっと待って、ミカエルが登場したということは、この絵のどこかに「悪魔」も描かれているかもしれない。ミカエルが描かれている絵の多くには、悪魔を倒すシーンが描かれているから。
もし描くとしたら、やはりあのサライを意味する「C」の文字のあたりか。サライは元々”小悪魔”という意味らしいし、どうせなら彼と関連づけて描きたくなる。
私は、改めて壁の『モナ・リザ』をじっと眺めてみた。
いや、もしかしたらレオナルドは、あえて描いていないかもしれない。やっぱりこの絵に”悪魔”は似合わないと思う。
じゃあ仮に、描かずに”悪魔”を表現するとしたらどうすればいいだろう?
(うーん)
すぐに思いついたストーリーは2つあった。
一つ目は、やっぱりこれかな。
『ぶわははは! そうだ
とか言いながら、悪魔が突然目の前に現れて、私の頭をがぶりっ、みたいな。
そんなことを考えながら私は何気なく後ろに振り向いた。
「ひっ!」
そこには、さっきバイトにでかけたはずのluaが立っていた。何か神妙な面もちで、私をにらむように見ていた。
「ねえさん」
そう言いながら妹はじりじりと私に近づいてきた。
「な、なによ、どうしたのよ、バイトに行ったはずじゃなかったの?」
「ねえさん!」
そう言うや否や、妹は走るようにして私との距離を一気につめてきた。
「や、やめて、あなたまさか本当に悪魔にとりつかれて」
私は両手で顔を覆うようにして息を止めた。急に静かになり、恐る恐る腕を下げてみると、妹が私の前でひざまづいていた。
「お願い、お金貸して!」
「は?」
「少しでいいから、バイト代が入ったらすぐに返すから」
「ちょ、ちょっとまって、バイトに行くのにお金が必要なの?」
「私、いつもバイトが終わったあとに友達とお茶してるんだ」
「ええ? そういうことをしているからお金がたまらないんじゃないの。なんのためにバイトしてるのよ」
「えへへ、まあいいじゃない。お願い、姉さん」
「まったくもう、しょうがないわね」
私は、机のすぐ脇においてあるバックの中から財布をとりだすと、少し多めの金額を渡した。
「やった、ありがとうございます、お姉さま、恩にきります」
「もう、ちゃんと返してよ」
「はい、わかってます。それじゃ改めてバイトにいってまいります」
そう言って妹は、ふたたびドアの方に小走りで行った。
「あっ、姉さん、ドアのところにmiuが来てるよ」
「miuが? miu、おいで」
「にゃあ」
miuは走って私のところにやってきて、軽やかにジャンプして私の腿の上に乗った。
「lua、今度はちゃんとドアを閉めていってよ。それと、バイトがんばってね。気を付けていってらっしゃい」
「はい、わかりました。行ってきます」
バタン
部屋には、私とmiuだけになった。miuは私の腿の付け根から腹部にかけたあたりで既に丸くなっていた。
あーあ、もうまったく、luaにはびっくりさせられたわ。急に現れるんだもの。
でもまあそれはそれとして、よくよく考えてみれば、悪魔が突然蘇るっていうのもちょっと芸がないわね。
やっぱり、さっきのluaみたいに埃を拭き取ったせいで翼が見えなくなることに気づいた人が、再び埃がたまるまで待つみたいな話の方がいいかな。
例えば、実はこれが悪魔による罠で、埃がたまってミカエルが復活するまでの間に、悪魔たちが夜な夜な額縁から復活して来るみたいな。うーん、でもまあこれも、ホラー映画とかでよくありそうな流れかな。
2つ目は、いわゆるオーソドックスなもの。それは、『モナ・リザ』を見るときに必ずこの絵に重なる人物、つまり、『モナ・リザ』を鑑賞している人自身が登場するパターン。
私は、人間には誰しも、意地悪でずる賢い悪魔的な側面が存在し得ることを否定しない。もちろん、その程度は人それぞれだとは思うけれど、多かれ少なかれ、人間はそうした「悪意」を持つ生き物だと思う。
『モナ・リザ』を鑑賞する者の「悪意」がこの絵に重なるのだとすれば、この絵に重なる人物はこれで6人目ということになる。
あれ?
でもちょっと待って、悪魔的な側面はミカエルにやっつけられちゃうんじゃない? じゃあ、残るは、鑑賞者の天使的な側面、つまり「善意」もしくは「良心」か。
『モナ・リザ』を見て心に安らぎを覚える人は多い。
それってどういうことだろう?
もしかしてこの絵は、見る人の良心、つまりその人の愛情を、鏡のように映し出すものなのかも?
もしそう考えるなら、この絵を見て心安らぐ人というのは、自らのもつ愛情によって癒されていたということになる。
ゴロゴロゴロ
miuの“ゴロゴロ”が私のお腹のあたりで穏やかに響きだした。
(あらあら、始まったわ)
抱いているときのmiuが喉を鳴らし始めると、その体から放たれる匂いと、体の重みとが急に増したように感じる。おそらくmiuも、少なくとも私の身体の匂いや体温をかなり身近なものとして感じ取っているのだろう。
私とmiuは、お互いの匂いとぬくもり、そして時間、そうしたものすべてを許容し合い、共有している。
微笑んでいるのが自分でもわかる。miuのいつもの寝顔が、なんだか今日は特別なものに見える。
私は、ノートパソコンを手元にひきよせると、書きかけの小説ファイルを格納してあるフォルダを開いた。そして、いつもよりもちょっと抑えぎみのリズムでキーを叩き始めた。miuのゴロゴロをできるだけ邪魔しないように。
(終わり)
まとめ
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