第14話 ミカエルの翼

「姉さん、あったよ。クローゼットの奥の方に一枚だけあった[注28]」


 妹が額縁をもってふたたび部屋に入ってきた。ふと壁の時計をみると、午後4時ちかくになっていた。


「それ、もうだいぶ長い間、置きっぱなしになっていたんじゃない?」


「うーん、そうだね。たぶん5、6年は経ってるかな。姉さん、セロテープを貸してくれる?」


「いいわよ」


 私は机の引き出しからセロテープを取り出して妹に手渡した。


「サンキュー、姉さん」


 妹は、5cmくらいの長さに切ったセロテープを2枚、『モナ・リザ』の一枚の右端の裏面に、横にはみ出すように張り付けた。そして、もう一枚の『モナ・リザ』を、慎重に上下の位置を合わせながら先の『モナ・リザ』の右端の隣に置いて、上から押し付けるようにしてセロテープにくっつけさせた。


「よしっ、これで完成っと。額縁がもっと大きかったら、もっとつなげるんだけどな」


「つなげる?」


「だってほら、こうして繰り返していったら、“階段”みたいになるでしょ」


「モナ・リザの階段!?」


 妹はときどき変なことをいう。普通に考えたらバチが当たりそうな発想だけれど、ちょっと面白い。そのとっぴな考えは今の私の背中を押してくれているような気がした。


 階段か……そうか、そうだね。私も一歩ずつ進んでいけばいいのかもしれない、階段を上るように。分からないこと、知らないことがあるのなら、答えがみつかるまで探し続ければいい。ときには怖くておびえてしまうこともあるだろうけど、でもやっぱり、飛び込んでいくしかない。レオナルドだってきっと、そうしていたのだから。


 妹は、額縁の裏面にある爪の部分を回して、裏板を取り外していた。


「姉さん、さっきさ、人は愛を循環させることができるって言っていたよね」


「ええ」


「それってさあ、今この地球に住んでいる動物たちとも愛を共有できるってことじゃないかな」


「あなたもしかして、“miu”のことを言っているの?」


 我が家には今、アメリカンショートヘアのオス猫がいる。猫は、私が生まれたときから両親が飼い始めて、“miu”という名前がその性別によらず受け継がれている。今のmiuは3代目にあたる。どこかに散歩にでも行っているのか、今日はまだ姿をみせていなかった。


「もちろん“miu”も含んでいるよ。でも、猫とか犬みたいなペットだけじゃない。生き物を大切に思う心は誰にだってあるじゃない」


「そうね。lua、あなたのその考え、この『モナ・リザ』とすごく親和性があるかもしれないわ。なぜなら、実際、この絵にはいろんな動物が描かれているといっている人もいるのよ[注29][注30]」


「へえー、そうなんだ」


 確かに、妹の言う通りかもしれない。この惑星に生きているのは、私たち人類だけじゃない。数えきれないほどの多くの種類の生物がこの惑星には存在している。レオナルドはもしかしたら、私たち人類が、人類以外の動物とも愛を共有し合える生き物なのだということをこの絵を通じて伝えたかったのかもしれない。


 そのとき、以前読んだ人類史に関する本のことが私の頭の中に浮かんだ。その本には、私たちホモ・サピエンスは、ある特殊な能力を獲得したおかげで、他の人類、例えばネアンデルタール人などを滅ぼして制圧することができたということが書かれていた[注31][注32]。


 ホモ・サピエンスが獲得した特殊な能力、それは“認知能力”と呼ばれるもので、この能力のためにホモ・サピエンスは妄想やフィクションを共有することができるというのである[注31][注32]。


 “愛”には可視的な実体がなく、一種の妄想やフィクションととらえる見方もできるかもしれない。


 だけど私は、“愛”を、単なる妄想やフィクションと同じものとは思わない。ホモ・サピエンスが他の人類を制圧したという解釈も、私の場合は少し違う。


 精神文明を司る“大いなる意思”は、かつて、ホモ・サピエンスを含む多くの種類の人類を創り出した。しかし、最終的に生き残ったのはホモ・サピエンスだけだった。なぜか? 共存する方法だってあったかもしれないのに。


 つまり、地球ガイア[注33][注34][注35]がその存在を認めるかどうかは別の問題なのだ。


 そして、そんな地球ガイアが認めたのは、ホモ・サピエンスの形態や能力ではなく、その本質なのだとしたら。愛を生み出し、共有することによって、互いに愛し合い、助け合うことができるというホモ・サピエンスの本質を容認してくれているのだとしたら。


 私たちは、この地球ガイアによって生かされている、そういう存在だということだ。だからもし、その本質を忘れてしまったような生き方をしていれば、他の人類と同じように、いずれこの惑星での居場所を失い、別の新たな存在に取って代わられてしまうかもしれない……


 あれ?


 なんか話がとんでもなく大きくなってしまった。私は何をしようとしていたんだっけ?


 ふと妹の方を見ると、彼女はすでに額縁の中に“二人のモナ・リザ”を収めていて、それをなぜかくるくると傾けるようにして見ていた。


「どうしたの? lua」


「あっ、姉さん、ちょっとこれみて。なんか変なものが見えるよ」


「変なもの?」


 額面を見ると、二人のモナ・リザの間に、“羽根”のような輪郭をしたものがみえた。< pic46 >


「なんだろう?」


 ともすると昆虫の翅のようにも見えるそれは、右側のモナ・リザの右肩から生えているようだった。


「姉さん、これって何かちょっと虹色がかっていて、きれいじゃない?」


「虹色!? そうか! これは“翼”よ!」


「翼?」


「そう、それもただの翼じゃない、これは“天使の翼”よ」


「天使の翼!?」


「ネットで調べていたときに知ったことなんだけど、レオナルドが生きていた時代は、天使の翼を虹色に描くのが通例だったらしいわ[注36][注37][注4]」< pic47 >


「ちょっと待って姉さん、これが翼だとして、これって『モナ・リザ』の右肩から生えているから、“サライ”か“イエス・キリスト”がもっているってこと?」


「いいえ、サライはもちろんイエス・キリストにも翼はないわ。これはおそらく“大天使聖ミカエル”[注38]の翼よ」


「どうしてそう言えるの?」


「イエス・キリストは大天使聖ミカエルと同一視される場合もあるの。地上にいるときの名前が“イエス・キリスト”で、天上にいるときの名前が“ミカエル”というそうよ[注38][注39][注40][注41]。それに」


 私は急いでノートパソコンを操作して、ダウンロードしていた『モナ・リザ』を画面に映し出し、“謎の物体”の部分を拡大した。


「ここをみて、この“謎の物体”には、“ミカエル(Michael)”の名前を示すと思えるものが描かれているのよ」


 実は私には気になっていたことがあった。この“謎の物体”には、薄く黒っぽい模様が妙に膨らんでいるところがあり、その中にアルファベットの『C』の文字に見える部分があることを。


「おそらくこの“謎の物体”は、リザだけじゃなく、ミカエルのことも示しているんだわ。つまり、『MICHAEL』の『M』と『C』を」< pic 48>< pic 49 >


 “謎の物体”は、“ミカエルの翼”の一部だったのだ。よくみると、この“謎の物体”は、聖母マリアの“橋”、サルバトール・ムンディの“曲がりくねった道”、そしてモナ・リザの左肩に掛かった“ショール”と一体となって翼を形成していた。


 これまでなにげなく通り過ぎていた疑問があった。そもそもなぜ、イエス・キリスト(Jesus Christus)ではなく、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)なのか、そしてそのイニシャルである『S』を“鏡文字”にする必要があったのか。しかし、今分かった。すべては、この“ミカエルの翼”に帰結していたのである。


 このときなぜか、私の頭の中に、最近見た映画『yesterday』[注45]で流れていたザ・ビートルズの名曲“ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード(The Long and Winding Road)”が一瞬だけよぎった。


 それは、幻想的な美しさともいうべきものを秘めた翼だった。翼の先端側の方には、小動物か何かの輪郭が小さく描かれていた。< pic50 >


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