第10話 ある思い

 “究極”、人々がときたま使うその言葉は、私にはどこか虚しさが伴うように聞こえる。


 そんな風に感じてしまうのには、実は理由がある。そしてそれは、私の書く小説にも大きく関与している。


 それは、私の15歳のときに端を発し、それから大学での講義を聞いて確信に近いものに変わり、そうして今までずっと自分の中に温めてきたものだ。


 最初は、中学生だった私が、あるテレビ番組を家で見ていたときだった。その番組は、教育関連の内容を放送するチャンネルで、生物の進化について特集を組んでいた。


「こうして、生物は海から陸地へ進出したのです」


 テレビには、両生類の祖先に関わるのっぺりとした生き物が、何か息も絶え絶えになりながら、海から岩の上へと這い上がる映像が映し出されていた。


 突然、私は奇妙な感覚にとらわれた。どういうわけかそれは、その両生類そのものから発せられるものではなく、その周囲から発せられるものだった。


(!? なにこれ?)


 私をとらえた感覚、それはある種の観念に近いものだった。その両生類が突然変異によって偶発的に進化したということではく、その両性類を取り巻くように存在する何らかの意思が、陸に這い上がろうとする両生類の意志を反映するようにその身体の構造を作り変えた。そんな感じだった。


 2度目は、私が大学に進学して分子生物学の講義で「ATP合成酵素」という生体分子のことを学んでいたときだった。この生体分子は、細胞膜に存在して、生物が生きていくのに必要なエネルギーの元となるATPという化学物質を作りだす酵素だ[注23][注24]。


 ATP合成酵素は、細胞膜の内側と外側の水素イオンの濃度差を利用して、高速で回転しながらATPを作り出す。


(え? それってもしかして……)


 それは、水の高低差を利用してタービンを回転させて発電する水力発電の原理とよく似ていた。


(こんなものが、生物進化の過程で自然発生的に生み出されたっていうの?)


 そのとき、中学生のときに受けたあの感覚が私の中によみがえってきたのである。


(無理よ。あんなものが自然にできるわけがないわ。あれを作り出すには“思想”が不可欠よ。なんらかの“技術的な思想”が。だってそうでしょ? 車やスマホ、消しゴム一つ取ってみたって、私たちの周りにあるものは何らかの課題を解決するための思想に基づいてデザインされたものじゃない)


 その時以来、“ある思い”が私の中に鎮座するようになった。


(居るんだ。この世界には、あの生体分子をデザインした主体が。いいえ、あの分子だけじゃない。この惑星に生きる生物の全てを)


 ときとして人は、そうした創造主を「神」と呼ぶ。だが私は、そうした「神」という具体的な主体を思い浮かべることはしなかった。私の中に感じていたのは「意思」、遙かなる精神世界に築き上げられた精神文明を司る「大いなる意思」の存在だった。


(もしかして、この次元とは違う別の次元に、太古の昔から存在する精神文明が、私たちのすぐ近くで今もなお息づいているのでは?)


 一度だけ、大学の同じ研究室にいた修士生に話をしたことがあったけれど、ほとんど相手にされなかった。無理もない。その存在を証明することができないのだから。


(よくよく考えてみれば、たとえその存在を感じるとしても、それが今の私になんの関係があるの? 私なんて、論文はおろか、実験さえ満足にできないただの学生じゃない)


 そしてそれ以来私は、その思いを私の中に封印した。いや、封印したつもりでいた。


 そう、実際は違っていた。ふと気が付くと私は、封印するどころか、それにつきまとうように生きていたのである。いつの間にか私は、あらゆる分野の学問に首を突っ込むようになっていた。首を突っ込むといっても、ネットで調べたり、書籍を読む程度なのだけれど。


 たとえば本屋や図書館に行って本を選ぶとき、なんとなく手をのばしたその本の中身は、私の中のあの思いと関係がありそうなものが多かった。関連性の有無という選択基準が無意識に働いていた。


 結局、「あの思い」と自分を切り離すことはできず、知識だけはどんどん蓄積されていった。そうして過ごしているうちに、その時は突然やってきた。「書きたい」という、どうにも抑えようのない衝動が、私を襲ったのである。


 それから私は書いた。書き続けた。思考の中をさまよい歩く時間と体力がつづく限り。そうすることが、私の中にある「あの思い」に近づく唯一の方法であると信じていたから。


 さきほども述べたが、「究極」という言葉は私にはほとんど響かない。遙かなる「精神文明」の前では、所詮限られた時間を生きるしかない人間がつくりだしたものを“究極のなんとか”などと呼ぶ行為そのものが、意味のない、恥ずかしい行為に思えるからかもしれない。


 実際、人間が発明する「技術」というものに関してみれば、それが生み出された瞬間からどんどん陳腐化して、最終的に「新しい技術」に置き換わってゆくことをだれもが知っている。そう、私たち人間は、“究極”を求めるというより、過去から未来へと“バトンを繋いでゆく”存在なのだと思う。


 もちろん、私のような者から見れば、レオナルドの作品はどれもすばらしくて、まさしく“究極の作品”と呼ぶにふさわしいものかもしれない。それは例えば、巨大なセコイアの木を根本から見上げるようなもので、それがどれほどの高さをもつものなのか、ちっぽけな私には見当もつかない。


 けれども、レオナルドはどうだろう? レオナルド本人は、はたして自分の作品を“究極のもの”などと認めるだろうか?


 レオナルドが私のように「精神文明」の存在を感じていたとは言わない。けれど、探求心が旺盛で様々な学問に精通する完璧主義者、そんな彼が、究極の美しさなどという、ゴールの見えない曖昧なテーマを選ぶとは、私にはどうしても思えない。


「姉さん、姉さんってば、どうしたの? 急に黙り込んで」


 妹の言葉で、私ははっと我に返った。

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