夜と砂塵

鍵崎佐吉

夜と砂塵

 荒野の果てはどこまでも遠く、地平線は夜に隠れて世界の境界を曖昧にしている。多くの者にとって暗闇は恐怖の対象でしかなかったが、取りとめのない夢想をするにはかえって都合が良かった。俺は手にしたそれをゆっくりと指先で撫でる。

 その板切れの大きさはちょうど手のひらほどで、木よりも重いが鉄や鉛とはまた少し違う気がした。表裏はわからないが片面は黒く光沢があり、そこに頭上の星空がうっすらと写り込んでいる。他にも突起や模様、小さな穴などが開いているがいずれも用途はわからないし、そもそも用途など存在しないかもしれない。それでもやはり手放そうという気にはなれなかった。

「眠れないのかい?」

 背後から不意に響いた声に振り返れば、そこには見慣れた老婆が立っていた。

「婆様、なぜこのような場所に?」

「年寄りは寝覚めが早くてね。星占いでもしようと思ったのさ」

 そう言いつつ老婆は俺の横へと腰を下ろす。近頃は占いなど当てにならないと言って遺跡掘りにばかり熱中する者もいるが、俺は婆様の占いや彼女の語る古い伝承が好きだった。それが正しいかどうかではなく、この荒れ果てた大地にはそういうものが必要なように思えたのだ。

「……おや、それはなんだい?」

 老婆はゆっくりと俺の手の中にある板を指さす。

「先日発掘された遺物です。今まで見つかった物の中では一番状態が良いのだとか。けれど使い方はわからぬままです」

「そんな板切れに大した使い道があるとも思えないがね」

「ですが遺物には我々が想像もできないような力が秘められています。それを解き明かすことができれば——」

 そこでふと言葉に詰まる。仮にそれが可能になったとして、その力で俺は何を為そうとしているのだろう。豊穣をもたらすようなものであれば良いが、もしこれが強大な武力となり得るような代物だったら? 自らの内に芽生えた暗い衝動を俺はあわてて踏み潰す。未知の力をそのように扱えば、いずれ必ず災いを呼び起こすことになるだろう。遺物の奪い合いによって滅びた国々の話はこの荒野にも届いていた。

「そんなもの使えなくとも良いのさ。それは神々の理、我々には過ぎた力だ」

 婆様は夜空を見上げながら静かにつぶやく。この人にはあの星々はどんな風に見えているのだろうか。その世界は美しく煌めいているように思えるが、同時に常人が足を踏み入れてはならない禁忌のようにも思えるのだった。

「……かつて全ての人々は繋がっていた。人と神との境界は曖昧で、大いなる知恵と力を持っていた。星の裏側にいる者とも瞬時に言葉を交わすことができたのだ」

 まるで親が子に教え諭すように、老婆はゆっくりと語り始めた。


 その時代においてそれは当たり前のことだった。人々は言語も距離も超えてどんな時でも一瞬で繋がることができた。それがどういった感覚なのか説明するのは難しい。しかし孤独が存在しないことは確かだった。人々は穏やかな温もりに包まれたまま、豊かで平和な日々を過ごしていた。

 しかし世を統べる者にとってそれは望ましくないことだった。団結は大きな力を生み、彼の者の支配を容易く凌駕することが可能だったからだ。彼の者は自らの統治と支配を絶対的なものにするため、それと気づかれないように密かに嘘を吹聴して回った。

「人々を騙し密かに富を収奪している者たちがいる」

「彼らは自らの利のため海に毒を垂れ流している」

「我らの同胞を迫害し絶滅へと追い込もうとしている」

「あの者たちこそ諸悪の根源であり、それを正す者こそ正義の権化である」

 その嘘を信じた者たちは人々の間に分断を生み、やがて大きな諍いへと発展していった。彼の者は分断を煽りより激しく人々を争わせたが、気が付いた時には既に歯止めが利かなくなっていた。やがて彼の者は争いに巻き込まれて息絶えたが、それでも人々の間に生じた亀裂は広がるばかり。嘘からまた新たな嘘が生み出され、もはや真実は誰にもわからない。他者を信じる力を失った人々は繋がりを絶たれ、猜疑に塗れ堕落した愚かな人間たちだけが残った。やがて人々は自ら定めた禁忌を侵したのだとも、星の怒りに触れ災いをもたらしたのだとも言われているが、真実はわからない。確かなことは、この荒れ果てた大地も穢れた海も全ては人の業によるものだということだけだ。


 冷たい夜風が吹き付け、砂塵が体を通り越していく。以前にも聞いたことがあるはずなのに、なぜか婆様の一言一句が心を突き刺すように鋭く感じられた。

「繋がる力を失った我々は今日も互いを疑いながら生きている。国は分かたれ小さな一族単位で細々と暮らしていくしかない。しかしそれが我々の定めなのさ」

「どうにかしてその力を取り戻すことはできないのでしょうか。そうすればきっと……」

「無駄だよ。それは人間の理解を超えた神の力だ。お前にもわかっているだろう? 遺物を弄り回したところで、我々は決して神にはなれない。細い血の繋がりを頼り、わずかな糧に感謝して、やがて星に還っていくだけのことだ」

 反論しようという気にはなれなかった。婆様の言うことには一理あるし、何より婆様を困らせたくなかったからだ。彼女はあくまでただの語り部であり、遺物から過去の栄光を復元できると信じている学者どもとは違う。それでも俺はやはり婆様と同じものを見ることはできなかった。

「遺物や遺跡といった遠い過去に触れる時、ふと思うのです。我々はこのままでよいのか、この星は滅びの運命の最中にあるのではないか、と」

「ならば受け入れるしかあるまい。人の身では抗えぬものもある」

 そういって婆様は闇の向こうの地平線を眺めやる。確かに先の短い老人はそれでいいだろう。しかし若い者たちはそれで納得するだろうか。我々が生きていくためには水や食料だけでなく、暗闇を覆い隠す夢が必要なのだ。そのためにはやはり神の力に頼るほかないように思えるのだった。

「……夜は冷える。婆様も星を見るのはほどほどにしてくださいね」

「わかってるよ」

 俺は限りなく広がる夜に背を向け、神殿の中へと戻る。手にした板は不思議と手に馴染む感じがする。発掘された数からして、かつての人々は一人一つ以上これを持っていたのだそうだ。もしかしたらそれは何か特別な力を持った道具ではなく、礼拝に用いるお守りのような物だったのかもしれない。だがなんにせよそれを確かめる術などどこにもない。

 神殿の最奥、白い花で飾られらた棺へと俺は跪く。そこへ横たわる神の亡骸は何十年経っても朽ちることはなく、今日も不変の美しさを保っている。一族の始祖を導いたとされるこの鋼の女神が、荒野に生きる者たちの唯一の拠り所なのだ。

「どうか、我らをお導きください」

 頭を垂れ、自分にしか聞こえない声でそうつぶやく。答えを返す者はどこにもいない。夜は深く、我らは未だ自らの定めを知らない。それでも生きてゆかねばならないのだと、頭上の星々がそう囁いているような気がした。

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夜と砂塵 鍵崎佐吉 @gizagiza

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