第21話 楽園の拡張

温暖な鎌倉の秋もようやく深まり裏山の木々の紅葉も盛りの頃、不意に隣の畑の田端さんが訪ねて来た。

ぼそぼそと言いにくそうな語り口だったが、要約するとうちの隣の農地を買わないかと言う事だった。

聞くところ彼の本宅はここから少し離れた扇ヶ谷にあり、ここの畑は飛地になっている。

扇ヶ谷に持っている農地に比べるとちらは手狭で、被災した本宅の修理に掛かる費用のためにここを手離す決意をしたようだ。

町の不動産屋はまだ再開していないので、まずは隣りの私の所へ声を掛けたと言う。

面積と価格を聞くと畑が三反に裏の山林付きで五百円だった。

過去の新之助の記憶からするとかなり強気の値段で、当時の相場ではせいぜい一反あたり百三十円だろう。

日本の土地価格は戦後昭和の高度成長期になって爆上がりしたが、関東大震災前の鎌倉は駅周辺と海辺の別荘地を除けばまだ長閑な農村だった。

当時の農地の相場ならそんな物だ。

それを言うと、八幡様に近い畑だから他より価値があると譲らない。

まあ後世ならそれで通るのだが、鎌倉の農地の全てはどこかしらの社寺の近くだ。

だがこれは我が楽園を拡張するには二度とない好機でもある。

ここは落ち着いて考えたい。

「うーん………まあ欲しいと言えば欲しいんだが、今はこんなご時世だからねえ。………二三日考えさせて欲しい。」

「ああ、わかった。じゃあその頃また来るで。」

と言って田端さんは帰って行った。


五百円なら今ある資産で楽に買える金額なのだが、先々の事もよく考えておかないと。

鎌倉の土地価格は翌年からの人口増加で上昇するはずだから、今は少々高めで買っても損は無い。

更にはあの姫神の加護は我家に隣接する一帯まで及んでいる。

ただ日本経済はこの後の昭和恐慌まで緩やかなデフレが続くはずだ。

デフレでは現金資産は減らさない方が良い。

さて、どうしようか………。

翌朝日課の玉依姫にお参りしている時に気は定まった。

買おう!

どうせ過去の新之助は投機に失敗して全てを失ったのだ。

臆する事は無い。

楽園拡張あるのみだ!


田端さんは二日後にやって来た。

「あー…」

「四百五十円で良い!いや、即金で払ってくれるなら四百三十円にする!」

私が渋っていると思ったのか、私が何も言う前に値を下げた。

これはあの後も何ヶ所か回って断られたのだろう。

まあ今の状況で土地を買おうと思う人は少ない。

「わかったよ田端さん、四百三十円で買おう。土地の登記が済み次第即金で払う。」

「朝比奈さん、恩にきる。実はうちの親族も揃って地震の被害で困っちまってな。」

「ただ即金と言っても今は登記に随分と日にちが掛かりそうだが。」

「そこは任せてくれ。役場に知り合いがいる。」

「そうか、では書類が揃ったら来てくれ。金は用意しておく。」

「いやあ、これで助かった。急いで書類は集めるで、また来るわ!」

彼の家は結構な地主と聞いていたが、自宅の修理以外に親類にも泣き付かれているとは。

よほど売れなかったのか、まさか向こうから値下げするとは思わなかった。

21世紀と比べれば只みたいな値段なのに、少し彼が気の毒に思えて来た。

あとは………この時代の農地と宅地の税制でも調べておくか。


その後一週間も経たないうちに田端さんがもう来た。

登記所に公証人も呼んだからこれからすぐ来てくれと言うので、金と印鑑を持って彼に付いて行く。

登記所と言っても仮設の役場の一画に机を並べただけで、他の係との仕切りも無い。

そこで一通りの書類に目を通し、互いに署名捺印を済ませ無事に売買を終えた。

田端さんは私に何度も礼を言い、急いで役場を出て道を走って行く。

そんなに切羽詰まっていたのならもう少し値切れたかも知れないが、将来の土地価格上昇を知っている私は返ってこちらが申し訳ない気になった。


さあこれで我が茶画詩庵の地所も裏山を入れれば二千坪以上になった。

やがてはここを京都の詩仙堂や頼山陽の山紫水明処のような文士文化人達の楽土にするのだ。

新たな建物の配置を考え、裏山まで続く庭園も造りたい。

貸屋にも店にも使えるような草庵も建てたい。

今の母屋と納屋も多少の手は加えたい。

ただし今建設業は大変な人手不足と木材の高騰で混乱しているから、それが落ち着くまでは造園を先に考えておくか。

明日は入手した土地の神気を確かめる事から始めよう。


朝は玉依姫に地所が増えた感謝のお参りをしてから、隣の畑と山を見に行った。

しばらく前まで白菜を作っていた畑は、全て収穫済みで綺麗になっていた。

畑の隅には枯れかけた鶏頭が数本残っていて、溢れた種から来年もここに生えて来るだろう。

庵のすぐ西隣の畑と山には十分玉依姫の神気が及んでいる。

地所の西端での神気は薄まるもののまだ自然の清浄感はあり、枯れかけた薄が金色の陽を受けていた。

門の南西の地震で潰れた農具小屋のあった辺りも問題無い。

小屋の造りが余りにも簡単だったから、倒壊も仕方なかったのだろう。


母屋に戻り土地の測量図を広げ、別の紙に庭の簡略な設計図を書いてみた。

西の端は自然な荒れ野の雰囲気にして、小径だけあれば良いだろう。

手入れし過ぎて人工的になるより、半分自然のまま山へ続くような庭が良い。

そこと今の母屋との間を四季の花が咲き競う美しい庭園にしたい。

桜と紅葉は今も裏山にあるから、庭の周辺部には梅桃椿に木槿芙蓉山茶花を植えて四季を彩る。

中央部は丈の低い種々の草花だ。

ああ、今ある離れの茶室を西に移せば、玉依姫のやぐらの眼前が広々と開けて一石二鳥かも知れない。

また今は路地の側溝に流してしまっている玉ノ井の水も、茶室の跡に小池でも作ればもっと清々しく見えるだろう。

門の南西にはそのうち若い文士達のための貸屋でも建てられればと思うので、取り敢えずは生垣で囲うだけで良い。

そんな夢は果てしなく広がってゆくが、造園費用や維持費の事も考えなければならない。

まあ震災からの復興が成る頃にはこの店も広げられるだろうから、そちらも何とかなりそうだ。

今はただただ美しい夢に酔わせてもらおう。


さてこうなるとまず探すべきは信用できる植木屋だ。

私はふと思い付き菓子折を持って田端さんの所へ出掛けた。

槌音が響き二人の大工に田端さんも加わって家の修理中だった。

「精が出ますね。」

「ああ朝比奈さん、先日は世話になった。今日は何か不都合でもあったか?」

「いや、実は良い植木屋をご存知なら教えて貰おうと思ってね。」

と持参の菓子折を差し出す。

「こりゃご丁寧に。植木屋なら佐助通りの植達うえたつが良いだろう。まだ若いが見所はある奴だ。」

「そうか、有難う。ではそこに行ってみるよ。」

思った通り田端さんは地元の顔役らしく、周囲の面倒見も良いようだ。

植木屋とは今後長い付き合いになるので、若く腕の良い人を選びたかったのだ。

その足で向かった植達さんは、体格の良い真面目そうな三十過ぎの人だった。

取り敢えず生垣と、一年でも早く植えて育てておきたい花木を頼むと、二つ返事で引き受けてくれた。

震災後はどの家も庭に気を配る余裕は無く、倒木の片付けくらいしか仕事が無かったそうで、明日からでも来てくれると言う。


翌日早々に訪れた彼に現場を見て貰い、座敷で茶菓を出し地所の図面を広げ、先々までの私の計画を相談した。

彼も計画を見て大変乗り気になり、

「この植達一生の仕事にする!」

と大袈裟に張り切っていた。

私の計算では土地建物に掛かる費用より、庭園に掛ける費用の方が多くなっている。

小なりと言えども女神の楽園、文士の楽土を建立するのだ。

私に取ってそれは自明の事だった。

良さそうな植木屋が見つかって一安心だ。

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