第12話 中秋の宴

もうすぐ中秋だ。

大震災からひと月近く経った。

茶画詩庵の人気和菓子となった仙桃娘だが、そろそろ白桃缶詰の在庫が心許ない。

そこで私は以前から考えていた葡萄を使った新商品を試作する事にした。

マスカットの缶詰がまだ数ダースも手付かずで残っているのだ。

新之助の記憶では白桃の缶と共に亡父の知人が送って来た試供品で、鎌倉人達の感想を聞いて欲しいとの手紙が添えてあった。

マスカットは栽培が始まったばかりでまだ珍しく、この缶詰も試作中の物らしくラベルに品種名が簡易に書いてあるだけだった。

葡萄大福の作り方は桃大福と大差無いが、マスカットの緑を生かすにのに皮の餅をもう少し透明に出来ればと思う。

葛粉が大袋で残っていたので、餅と合わせれば良いかも知れない。

餅米もだいぶ減って来たので、上手く行けば一石二鳥だ。

何度か試作を繰り返し、葡萄の瑞々しい緑がうっすら透けてみえる菓子が出来た。

名付けて星宿餅。

中秋からはこれを店に出そう。

季節柄、暖かい珈琲に合だろう。

十月は床飾りも秋深い感じの物を選んで、花は当分薄を中心にしていろいろ試したい。

秋は山取りで実の物も飾りになる。

そうだ、蒲原先生と大佛夫妻に来てもらい、中秋明月の宵に新商品の試食の宴を開こう。

これは良い考えだ。


ついでに彼岸中秋頃を境に家中の模様替え更衣だ。

私はもうすっかり大正の暮らしに馴染んでしまったのだが、21世紀育ちの感覚で家にも多少手を加えたい

衣服も秋冬物を出して干さないと。

衣料はそもそも何がどこに仕舞ってあるのか、新之助の記憶でも曖昧だった。


そんな事を思いつつ帳場箪笥の前に座り店番をしていると、

「あっ、あの時の!」

それは私が瓦礫の下から助け出した、あの八幡宮の巫女さんだった。

ゆっくりとだが、もう松葉杖も無しに店に上がって来た。

「もう歩けるようになったのか。良かった。」

「はい、お医者様が回復の為に出来るだけ歩くようにと。」

「そうか。元気そうで何よりだ。」

「あの時はろくろくお礼も申し上げずに……。飛鳥井透音と申します。命を救って頂き、本当に……ううっ…」

あれっ、泪ぐんじゃったぞ。

「いやいや、こちらこそ手当ても人任せに置いて来ちゃったから。ああ私は朝比奈、朝比奈新之助だ。ここで茶屋をやっている。」

「実はお友達がこちらのお茶菓子の噂で盛り上がっていたんです。それで今日は歩行練習がてら是非お寄りしようと。」

瓦礫から助け出した時の姿は装束は破れ顔も埃塗れだったが、今見れば大正袴に艶やかな黒髪を背に流した、品良く賢そうな娘さんだ。

肌の血色も良くなり、秋陽が頬の笑窪に柔らかな陰影を造っている。

ほのかに朱のさした眦は、鏑木清方の美人画のようだ。

「では早速、お持ちしよう。」

一瞬彼女の変貌ぶりに見とれてしまったが、気を取り直し厨から仙桃娘と抹茶奥麗を運んだ。

「わあっ、可愛い!」

早々に気に入ってくれたようだ。

抹茶奥麗の茶碗は若い女性にしか似合わない紅志野を選んだ。

茶碗を回す所作も優美にこなれている。

大社の神職や巫女職は氏育ちを選ぶから、これは相当な良家のお嬢さんかもしれない。

「はぅ…美味しい。こんなお味、初めてです。どんなお茶会でも無かったお茶とお菓子、何と言ったら………もう言葉もありません!」

「気に入ってくれて何より。」

「鎌倉にこんな素敵なお茶屋さんが出来たなんて。東京や京都のお友達にも自慢出来ます。」

ええー、細々とやるんだからそんなに広げられても……

大体まだ材料仕入れの目処も立っていないし。

「いや、小さな茶屋だからねえ。」

「その小さなのが良いんです。秘密の隠れ家みたいで。」

「そうなの?まあ、有難う。」


まだ足元が覚束ない彼女が立ち上がるのに手を貸し、見送ろうとした時に。

「あっ!『有明集』!!」

帳場箪笥の脇に置いてあった蒲原先生の詩集が、彼女の目に付いたようだ。

「知っているの?」

「はい、女学校の文芸部で短歌や詩をやっていたんです。蒲原有明先生は一番尊敬する詩人です!」

「へえー、じゃあ今度会ってみる?」

「うそお!お会い出来るんですか?」

「うん、ここの中秋の宴にお招きするんで、その宵に来られるならどうぞ。」

「わあ、嬉しい。有難う御座います!是非参ります!」


同好の士を見つけた嬉しさでつい約束してしまったが、彼女を見送った後でまだ先生のご都合を伺っていない事に気付いた。

幸いにもその日の夕方、私に声も掛けずに玉依姫にお参りしていた先生に話し、目出度くも中秋の宴が決まった。

大佛夫妻は……放っておいても来るだろう。


中秋当日は天気だけが心配だったが、途切れ途切れに秋の雲が去来する月見日和だ。

今宵は少人数なので茶室の方を準備して、床の間には池大雅の月下弾琴図。

花は花薄の根締めに山竜胆を添え、床の間ではなく障子戸の外の月の方角に置いた。

床の間の対面には先生から頂いた短冊を掛けた。

[池のこころに懐かしき 名残の光月しろぞ 今もをりをり浮びただよふ]

有明集からの一節だ。

源平池に浮かぶ古の幻影、去り行く月影。

月見に相応しい詩だ。

新作の茶菓子は乾山の菓子鉢に盛り、作法通りに取り回し懐紙に受けてもらう。

そして今日からは暖かい珈琲だ。

器は数物だが江戸時代はある黒織部の筒茶碗。

仲間内の宴なので日本酒も用意し、みたらしの串団子も作っておいた。


透音さんがまだ陽の高いうちに来てしまった。

うら若い女性と二人きりではいささか気まずいので、やぐらに案内し女神像の出来事を話してやった。

「先日お邪魔した時もこの辺りはとても清らかな感じがしていて、不思議だったんです。」

「ほお、君も神気を感じられるのか。」

「一応私も巫女ですから。でも八幡さまよりもっと優しく包んでくれる感じ。」

「八幡は武神だからね。玉依姫は巫女さん達の守り神でもあるんだよ。」

「では私にもご加護がありますように!」

遠音さんの拝礼の所作は、さすがに美しく洗練されていた。


そうこうするうちに先生と大佛夫妻と猫の白妙が揃った。

「先生、白妙の鈴を有難う御座いました!」

「ああ、あれは白妙が戦っておった邪気から出た物じゃから、元々白妙の物じゃよ。

ああいった大型の邪鬼を倒すとたまに何か落とす事がある。」

「へえ、そうだったんですか。」

「あの時は暗くて見当たらなんだが後日もしやと思っての、用事のついでに大仏に寄ったら瓦礫の陰に落ちとったわ。」

「いずれにしても有難いです。大事にします。」

白妙は機嫌良さそうに毛繕いしていた。

秋風の中に日は暮れなんとしている。

そして先生に透音さんをご紹介。

「ほう、飛鳥井とは宮中御歌所の?」

「はっ、はい。叔父が務めに上がっております。」

やはり公家のお嬢さんだった。

いやおひいさまか。


客に茶室に入ってもらい、私は裏の水屋に用意しておいた茶菓を運ぶ。

白妙は玉依姫のお膝元で気持ち良さそうに眠っている。

やぐらの穴の狭さがお気に入りのようだ。

茶室では先生が大雅の画軸を眺め唸っている。

月明の竹林で隠士が琴を独弾している清雅な絵だ。

透音さんは目敏く蒲原先生の短冊を見付け、食い入るように見入っていた。


皆が席に付き、月はまさに今出づるところだ。

「お待たせしました。新作の星宿餅です。」

「まあ、綺麗な緑が透き通って!」

「本当に中に星が宿っているみたい!」

見た目は合格らしい。

「葡萄と餅の豊かな味と珈琲の温かさが、いかにも秋じゃのう。」

「これがマスカットですか。お初にお目にかかります。」

今度の新作和菓子もどうやら店に出せそうだ。

茶菓の器を下げ、汲出で玉ノ井の湧水の煎茶を出しておく。

私は次の酒宴の準備に水屋へ引っ込んだ。

「ふふっ、今度の新作は私が一番乗りね。ご近所で自慢できるわ!」

「私もお友達に自慢します!怪我の間は聞かされる一方だったから。」

裏にまで聞こえる声で、女性陣にも好評だった。


白妙にも古織部の向付に畳み鰯を乗せて持って行ってやる。

酒は残り少ないものの、今宵で全部空けてしまう覚悟だ。

男性には古唐津、女性には古九谷の色絵の徳利盃で、串団子は大皿に盛り私も席に付いた。

ついに月は東の祇園山を抜け出て、紺青の天へ昇らんとしている。

庭の秋草の花は宵風に戦ぎ、花入の薄は穂を広げ月の光がそこに集まる。


[月光の……淡さにかなふ野辺の花………]

透音さんだった。

少しの間をおいてそこに続けたのは、

[……庵を囲みて俗世と隔つ]

先生が下の句を付けた。

「さすが飛鳥井の娘、やるのう!」

「あっ、いえっ、つい声に出て……」

「上の句だけにしても良い句じゃった。」

この小さな楽園の庵が俗世から離れていられるのは、花や玉依姫や先生のお陰だ。

座興でもこんな連歌の下の句を付けられるとは、やはり先生は畢生の大詩人だ。

「みんな上手いなあ。僕も嗜みで俳句くらいはやるかなあ。」

酒豪のはずの大佛次郎が少し酔っている。

いつの間に入って来たのか、白妙が彼の膝で眠っていた。

「どれ、折角じゃ。朝比奈君の吟詠も見てやろう。」

こちらにもお鉢が回ってきた。

先生の御指導の成果を試されるようで、学生時代以来の緊張感だった。

[荒庭の日々に移ろふ露千々つゆちぢに 花色宿し月色宿し] 新之助

………………

「ほぉ、この秋の女神の庭が典雅な調べで詠めておるよ。具象も効いて立派なもんじゃ!」

「こんな調子でやって行けますかね?」

「あぁ、大いに自信を持って良い出来じゃよ!」

「有難う御座います!」

この日は私がこの時代に転移して来て、最も高雅な宵となった。

皆もうっとりと女神の庭に浮かぶ明月を眺めていた。

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