第9話 神猫
茶画詩庵も何とか軌道に乗って来て、今日は初めての休店日だ。
早朝のうちに洗濯を済ませる。
その後の午前中にかねてから気になっていた鎌倉大仏を見に行った。
当時の大佛次郎夫妻はこの大仏裏あたりに住んでいたので、先日のビラ配りで近くまで来たものの日が暮れかけてしまい、その日は大仏へは寄れなかったのだ。
野次馬根性のようで気が引けるが、津波で傾いた大仏は文筆の徒としてしっかり見ておくべきだろう。
長谷の浜の津波の惨状はまだ残っていて、道路以外は至る所瓦礫が散乱している。
高徳院の建物も倒壊して、遮る物の無くなった遠くからも大仏の巨体が見えた。
なるほどやや前のめりに傾いてはいるがその温顔は変わらず、今も千年の夢幻の中に座していた。
私には御仏の本体よりもその背後にうずたかく重なった瓦礫の方に、より強く大悲の心を感じてしまった。
蓮華座の横から背後に回った時に、瓦礫の中に横たわっている白猫を見つけた。
怪我をしているのか、そもそもまだ生きているのかと疑うほど汚れ血痕も付いている。
近づこうとするとふらっと立ち上がり、よろよろと向こうへ行ってしまった。
しばらく猫の逃げた方を眺めていたが仕方ない、諦めて大仏を一周して帰る事にした。
去り際に振り返ると、瓦礫の山のあたりに例の瘴気に似た感じがうっすらと漂っていた。
買い物などして帰りが少し遅くなったが、午後は納屋の桐箱に入った物を整理した。
表に品名が書いてあるのだが、まだ開けて見ていない物をこの目で確認しておきたい。
食器茶器は茶画詩庵の開店前に見ていたが、書画の掛軸はまだだった。
先日表書だけ見て秋の今掛けられそうな物は母屋に運んだが、今日は出来れば残りの全部を確認したい。
江戸時代の文人画が多く、明治の絵もそこそこある。
彩色画は少なく水墨画と詩書が中心で、御先祖の趣味がわかる。
漢詩の書は沢山あったが癖っぽい草書は解読に苦労しそうだ。
直参旗本の家重代に及ぶ書画の蓄積は、想像以上に大した物だった。
ざっと見た所では文人の家系らしく渋めの趣味で、飛び抜けて高額な評価が付く物は見当たらないが、蕪村や大雅の草体の小品などはとても気に入った。
これなら四季と言わず月替わり、いや二十四節季ごとに掛け替えられる。
それから数日経った夕方茶屋の門を閉めようとした時、西の空に強い瘴気を感じた。
大仏のある方角に黒い霧のような物が蠢いている!
一瞬迷ったが納屋へ入って鎧櫃を開け破邪の鉢金を付け、念の為八片焔剣を箱ごと抱えて走り出した。
近付くと大仏の裏辺りに濃い瘴気が立ち込め、その中で時折白く光る物がいる。
あの傷ついていた白猫だ!
何と瘴気が猫を襲っていたのだ。
私は咄嗟に覚えたての祝詞を唱えた。
瘴気が蠢き身を捩り、苦しみ出している。
私は何度も何度も、夢中で同じ祝詞を唱えた。
すると苦しみのたうっていた瘴気が渦を巻き出し、濃く凝縮して行き………
邪鬼が現れた!
見るもおぞましい異形の黒鬼だった!
六尺余りの巨体に黄ばんだ牙を剥き出し、腐肉に蛆のような蟲までたかっている。
これは無理だ。
こんな奴は見た事も無い。
ううっ、どうすれば良いんだ!
私はじりじりと後退りするしか出来なかった。
「剣だ!八片焔剣を使うんじゃ!!」
突如背後から声がした。
「先生!」
蒲原先生が来てくれた!
師の声にすうーと心が鎮まった。
近くにうずくまっていた白猫の身がふわっと光り、邪気を牽制している。
その間に私は抱えたままだった箱から剣を取り出し、諸手に構えた。
剣が仄かに光り神気を放っている。
それだけで邪鬼は一瞬怯んだようだ。
後ろでは先生が神鈴を振り、強力な言霊で祝詞を唱えている。
私は一歩踏み込んだ。
敵も牙を剥き両腕を振りかざし襲いかかって来た。
それに一切構わず八片焔剣を袈裟懸けに一振り!
すかさず返して逆側からもう一振り!
剣から白光を伴った神気が迸り出て、邪鬼を切り裂いたようだった。
「「滅却!!」」
先生と私の声が重なった。
仰向けにどうと倒れた邪鬼の身体が薄れて行き、やがて消え失せた。
辺りの瘴気も綺麗に消え失せ、涼風が吹いてる。
「はあー、何とかなった。」
先生は邪鬼の消えたあたりを確認しながら、
「君の神威は本物ぞ。慌てる事は何も無いわ。」
「いやあ、不覚でした。」
「上達すれば武具無しで邪鬼を滅却出来るようになるが、初心の内は神威の宿る武具を使うと良い。」
「お見事でした!」
不意に瓦礫の陰から一人の若者が出て来た。
「蒲原有明先生ですよね?」
「おお、君は大佛君!」
更にもう一人。
「茶画詩庵のご亭主さんよね?」
酉子夫人だった。
「近くで凄くいやな気配がするので、恐る恐る様子を見に来たんですよ。」
「ああ、君も瘴気を感じ取れるか。」
「それにこの猫とは時々餌をやりながら語り合う仲で………」
「これは神猫じゃよ、驚いたわ!」
大佛次郎の猫好きは未来の日本では有名だった。
「茶画詩庵さん、素敵でしたわ。映画俳優にも成れましてよ!」
「…蒲原先生の弟子で、朝比奈と申します。」
人気女優の酉子夫人にこの姿を見られたとは………
「この事はくれぐれも御内密に。」
「ええ、心得ておりますわ。私達だけのひ・み・つ!」
「………」
その後この神猫は玉依姫の浄域でしばらく養生させる事になった。
大佛さんは家から上等な毛布を持って来て猫を包んだ。
夫人は帰ったが大佛さんは猫は自分が運ぶと言って我々に付いて来た。
やぐらの玉依姫の膝元に毛布を敷き、神猫の汚れを綺麗に拭き取り傷ついた足には包帯を巻く。
全て大佛さんがやった。
私が厨の戸棚から煮干しを持って行くと、それも大佛さんが受け取り猫の枕元に置いた。
三人で玉依姫に手を合わせ、加護を願った。
先生には抹茶奥麗を大佛さんには珈琲を抹茶碗で出し、茶室で一休みだ。
「朝比奈君もこれで一人前じゃよ。邪鬼を一太刀、いや二太刀か。」
「まだまだですよ。先生が来られなかったらどうなっていたか。」
「わしも気配を感じて出て来たんじゃが、若い者の足には敵わなんだ。」
「助かりました。」
「八片焔剣の神威だけで奴はたじろいでいたのう。もっと自信を持て!」
「はい、今回でだいぶわかって来ました。」
「あ、あの時のお二人の祝詞は?」
と、大佛さんがたまらず問い迫って来た。
「瘴気祓いじゃ。その瘴気が凝ると色々な邪鬼が出る」
「ああ、あれが邪鬼。」
「大佛君も瘴気が見えるなら素質はありそうじゃ。」
「僕にも出来ますか?」
「まあ、精進次第かの。」
こうしてこの夜は解散となった。
よく調子目覚めて顔を洗いに出ると、やぐらの前にはすでに大佛さんが来て神猫の様子を見ていた。
「いやあ、心配で早く目が覚めちゃって。」
「おはよう。猫の様子はどうですか?」
「もう煮干しは食べました。少しですが元気が出て来たようです。」
「ほう、それは良かった。」
私はまだ眠っている猫を見ながら、玉依姫に手を合わせ昨夜のお礼をした。
「猫の好物の畳み鰯を持って来ました。」
「こんなに沢山!わかった、預かるよ。」
「ではまた。この子をよろしくお願いします。」
「ああ、奥さんにも宜しく。」
と言って帰って行った。
この猫はもうすっかり彼の子になったようだ。
その日の午後、案の定店に大佛夫妻がやって来た。
大佛君は珈琲、夫人は抹茶奥麗と仙桃娘だ。
彼は珈琲を飲み干すや否や、たちまち猫を見に行ってしまった。
「主人はもう朝から夢中で神猫の事を調べ出して、食事も上の空ですの。」
「それはまた………」
「なので私もこちらのお茶に夢中になる事にしました。」
「それはまた………」
大した夫婦だ。
大佛君はそれから毎日来て、猫を拭いたり餌をやったり。
そしてニ三日後にはそこらを走り回れるほど回復した猫を見て、大佛君が深々と頭を下げた。
「お世話になりました。有難う御座いました!」
「いやあ、お世話はほとんど君がしていただろう。」
「いえいえ、本当に有難う御座いました。」
私と女神像にもう一度礼をして、
「では、また来ます。」
と、猫を大事そうに抱いて帰って行った。
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