第7話 祝開店
今朝はしばらく茶画詩庵の準備でお座なりだった女神像のやぐらを念入りにお清めし、榊と灯明と御神酒を供えいつもより一際力強く柏手を打って来た。
路辺には露草が澄んだ蒼い瞳のように俯いて咲いている。
風もようやく秋らしくなり少し穂の出て来た青薄が一斉に戦ぎ、玉ノ井の幽かな水音と風のざわめきが浄域の静謐さをいっそう深めていた。
米を炊き秋菜の味噌汁を作り、買っておいた鯵の干物を七輪の炭火で炙る。
出汁巻き卵に漬物を添えて、震災以後はじめて箱膳の一汁三菜の器全てを埋める事が出来た。
この程度の事で、これほど充足感が味わえるとは思わなかった。
残ったものは明日の朝食用に戸棚に仕舞っておく。
座敷で食後の煎茶を飲みながら昨日の新聞を広げた。
政府は復興のついでとばかりに東京の大改造と近代化を大きく進めようとしている。
昔読んだ永井荷風の随筆には、この時を境に江戸明治から続いた東京の美しさが惜しげもなく切り捨てられて行ったと書かれていた。
まあそれも私にとっては既知の事で、今はせめてこの鎌倉の一画だけでも日本の自然美伝統美を護持できるよう努めるしか無い。
横浜では大火災が起きた町並みの復興はほとんど手付かずで、港湾の再建の方に力を入れている。
貿易の停止は全ての産業に影響するので、それも致し方ないだろう。
横須賀線も区間区間では徐々に部分復旧され、全線が開通する日もそう遠くなさそうだ。
電気の復旧が最も難事らしく、鎌倉だけでも無数にある架線の切断箇所は、二週間経った今も全ては把握しきれていないだろう。
ただ私は転生以来この時代の電化はこんな物だろうと割り切っていたからか、薪と蝋燭の暮らしも悪くはないと感じている。
何より夜更かしの悪癖が無くなり、早寝早起きの生活は健康にも精神にも良い。
まあ精神生活に最も良い影響を与えてくれるのは、玉依姫の浄域なのは間違い無いが。
散歩がてら八幡宮に行ってみた。
源平池の蓮は実となり岸辺では白鷺が羽を休めている。
本殿前にあった救護テントは撤去されて、拝殿代わりのテントに記帳台と賽銭箱が置かれていた。
潰れた本殿の大屋根はまだそのまま痛ましい姿をさらし、禰宜や巫女の姿は見えず作業員ばかりが行き来している。
八幡宮の再建には年単位の時間を要するだろうが、それまでずっと我々が鎌倉の瘴気を祓うのだろうか。
また蒲原先生に聞いてみよう。
怪我の巫女さんは回復後も仕事に戻るのかわからないが、彼女が倒れていた社務所の瓦礫はもう片付いている。
宮前の若宮大路と金沢街道は工事の車両が盛んに行き交っていた。
さて我家に戻り書斎で珈琲を飲みくつろいだところで、何か忘れている気がする。
…………句歌のメモだ!
本来の己れの本業であるはずの文筆業を忘れていたのだ。
転生後の二週間、混迷の中にありながらも折々断片だけはメモしておいた俳句短歌を、今日こそ集中してしっかり仕上げ清書しておこう。
玉依姫の加護が詩魂にも及んでいる気がするし、蒲原先生の教えで会得できた技法もある。
さあ、どんどん行こう。
………………
………
…
浄域の静寂の中でこれまでに無いほど詩想が湧いて来て、昼食も忘れて没入していた。
気が付けばもうすぐ夕方で、この辺で一区切りにしよう。
明日はいよいよ茶画詩庵開店の日だ。
とは言っても今の世情の中ではとても大勢の来客は望めない。
当分は張り切り過ぎず、こっそり細々とやって行こう。
せっかく細々とやって行こうと決意したのに、朝焼けの空は茶画詩庵の開店を祝福するが如く、新之助に発破をかけるが如く、紫金色に輝いていた。
朝のうちに掃除を済ませ、客用の器を拭き、材料の仕込みを終える。
仙桃娘の作り置きは………十二個、いや十個でいいか。
フルーツ大福はこの時代には無かったはずで、仙桃娘と言う名も多分初めてだろう。
物珍しさだけでも評判になってくれると良いが………。
営業時間は午後二時から六時まで、今はまだ材料の備蓄が乏しく仕入の目処が立つまでは細々とやるしか無い。
午後二時よりは三十分も早く開門し、旗を立ててしまった。
細々とやるのが理想だが、客が一人も来ない事もあり得る。
その時はその時、余った大福はご近所に配れば喜ばれるだろう。
まだ二時前なのにだんだん不安になって来た。
最初の客は二時半頃だった。
意外にも海軍の制服を着た四人連れだ。
「おお、ここだここだ。」
「路地裏に隠れた小さな茶店と聞いたが、結構良い屋敷じゃないか。」
「さあ、入ろう。」
元気の良い若人達だ。
「いらっしゃいませ。此方へどうぞ。」
と、床の間の前の席を薦める。
「おい、竹田の軸だよ。驚いたな。」
「竹田なら俺の故郷の偉人だ。どれ見せてみろ。」
四人とも注文を忘れて画軸を眺めている。
九州出身の軍人らしい。
「ご注文は茶菓の組合せで宜しいですか?」
どうせ品書きにはそれしか無いのだが………。
「ああ、四人前頼みます。」
厨を往復して仙桃娘を運ぶ。器は山村さんに出した物と同じだ。
「おっ、デザートフォークで大福か。」
「和洋折衷で洒落てるよ。」
海軍の若い将校らしくなかなかの見識だ。
続いて、
「当庵自慢の抹茶奥麗です。」
と、盆を運ぶ手際も慣れて来た。
「ほお、この抹茶の味は良いじゃないか。桃の香りにも合ってる。」
「さすが、山村さんのお勧めに間違いは無いな。」
えっ、お隣の山村さん?
「どなたか、山村さんのお知り合いで?」
「以前イギリスでお世話になって、今被災のお見舞いに行ったらここを大層褒めておられてね。」
「そうでしたか。」
「我々も海軍仲間に宣伝しておくよ。」
「有難うございます。」
いやあ、茶菓子が売れ残った時は真っ先に山村さんに持って行こう。
その後ぽつぽつと客が入り始め、ある和服のご婦人二人連れは、
「最近は暗い報道ばかりだったでしょう。だからこのお店は今ご近所で一番の話題なの。是非一番乗りしようと思って。」
と、明るく笑っていた。
手書きのビラも効果があったか。
慣れない仕事で気ばかり忙しなくもう閉店近くなった頃、蒲原先生が見えた。
「わしに黙って店を始めおって!」
「いや、お近くまでご挨拶に伺ったんですがお姿が見えずに………」
実際ビラ配りで二階堂の御宅にも行ったのだが、先生の家は倒壊していて誰もいなかったのだ。
「はっはっは、冗談じゃよ。今は家族共々知人の所で世話になっとる。ほれ祝儀じゃ。」
「これは恐縮です!」
「おおっ、田能村竹田!さすが画格が高い!!」
先生は懐手で唸っている。
途中で足りなくなり慌てて作り足した仙桃娘の最後の一つを出した。
商売物とは言え、疲れた日の夕食後の甘味は格別と楽しみに………
「ほう、仙桃とはの。うん、香りも色合いも良い。まこと仙丹のようじゃ!」
先生には抹茶奥麗は先日ご賞味頂いたので、今日は玉ノ井で冷やしておいたミルク珈琲だ。
「珈琲を古陶の抹茶碗でか。これはわしも家で真似てみよう。」
「珈琲も茶筅で泡立てると風味が柔らかくなります。是非やってみてください」
「まさか弟子からこんな良い事を教わるとはの!わっはっはっは!」
先生は忘れずに玉依姫に拝礼した後、今日もご機嫌宜しく帰られた。
今日は御祝儀の金一封、この前は直筆短冊と毎回過分な物を頂戴して、どう恩返ししたら良いかわからない。
結局初日の客は丁度二十人、弱気の想定の二倍だった。
考えてみれば未来では世界をリードしていた日本のスイーツの味、確かにもう少し自信を持っても良い。
ただ、暇だろうから好きな本が沢山読めると思っていたのに、ついに今日は一頁も読めなかった。
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