第5話 大詩人

今日の午後は蒲原先生が来るので、朝一番で汚れ物をためないうちに洗濯だ。

予想は出来たが電気洗濯機がない時代の洗濯は、かなりの手間がかかる。

洗剤もただの粉石鹸で、強い汚れ落としは結構手力が必要なのだ。

物千しは母屋の裏側の陽当たりの良い場所にある。

量はそんなに多くないのに、一時間以上かかってしまった。

子沢山の家の洗濯は毎日重労働だろう。

洗濯だけは家電製品のある21世紀が良かった。


今日も午前のうちに駅方面の様子見に行ってきた。

市中は前日の重苦しい雰囲気よりはましなものの、さすがにまだ明るいとは言い難い。

救護テントに寝かされた怪我人の数も多い。

電源の回復は夥しい箇所の断線で全く目処が立っていないが、鉄道は思ったより早く仮復旧出来そうだ。

市場跡では地元農家の露店が増えていて、また野菜と卵を幾つか買って帰った。


蒲原先生に茶菓を用意しようとして閃いた。

21世紀の物はあらかた封印したが、食糧飲料だけは消費してしまうつもりでまだ出してあった。

先生には最後に一本残っていた未来の抹茶ラテを玉ノ井で冷やして振舞おう。

玉依姫にも昨夜の御礼にそのラテをお供えしておこう。


先生は九月の残暑を避けて夕風の吹き出した頃にやって来た。

連れ立って玉依姫にお詣りし、茶室で冷えた抹茶ラテを振舞う。

「おお、これは珍しい!天界の飲物のようじゃ!」

「姫神様の天啓で私が作った、抹茶奥麗と言う物です。」

昨晩の仕返しでは無いが、少しはったりを効かせておく。

「いやあ、堪能した。昨日の疲れも失せる。」

「お褒めにあずかり恐縮です。」

「昨日の茶も今日のこの奥麗も極上じゃよ。

本当に茶屋をやらんかね。」

「まあそれは追い追い考えます。」

「そうか、では武具を見に行くか。」

「あるとすれば納屋でしょう。どうぞこちらへ。」


納屋の中のごちゃごちゃな物は新之助の記憶でもあまり覚えていない。

それらしいものを探していると、古めかしい鎧櫃があった。

開けてみると狩衣のような装束と長足袋、革製の胸当に手甲脛当、錦の袋に入った鉢金、黒塗の箱に収まった古代の七支剣に似た剣が出て来た。

「これよこれ。我が友圭介が苦労して集めた神器じゃ。

特にこの八片焔剣やひらのひつるぎは平安時代作の霊験あらたかな秘宝よ。」

「こんな物を実際に使う時があるのですか?」

「うむ、たまに強敵もおるでの。」

「………」

「普段の瘴気祓いならこっちの破邪の鉢金だけで十分じゃろう。

これも鎌倉時代作の逸品じゃ。」

「普段から昨晩のような事をするのですか………」

「八幡宮が倒れた今は非常事態じゃ。世情不安、人心騒乱、そんな時ほど奴らはのさばるのよ。」

「私には荷が重いと思われますが。」

「なんのなんの。天霊地気を観ずる者、自ずと乾坤護持のつわものとなれり。君に出来ずに誰が出来る!玉依姫の御加護があれば怖い物は無かろうに。」

「私は祝詞には詳しくありませんよ。」

「そんな物は本一冊覚えれば良い。

この家にも父君が使っていた祝詞集があるじゃろう。

それより肝心なのは神威ある言霊の歌が詠めるかどうかじゃ。

瘴気が凝って実体化する邪鬼どもには形通りの祝詞では通用せん。」

「先生の詩のようにですか。」

蒲原有明の作品は目眩くような美しい古語が鏤められた流麗なる新体詩で、学生時代から私の憧れの詩だった。

「うむ、昨今の新教育やら言文一致やらで、古語や言霊を操れる若い者がほとんど居らんが、君ならこの有明が仕込んでやれる。」

「そこまで仰るなら、私もやって見ましょう。ご指導宜しくお願いいたします。」

この時の私は瘴気祓い邪鬼祓いの事よりも、あの生涯弟子を取らなかった大詩人蒲原有明に弟子入り出来る事の方が、文筆を志す者として嬉しかった。

将来の道まで拓けた気になれた。


夕暮れ近く先生が帰られた後、私は納屋の奥の書庫から祝詞集と先生の詩集『有明集』を探し出した。

祝詞はやたら長い物もあるが、昨日の様子では肝心な部分を和歌の三十一文字に直して唱えれば良いようだ。

私はそれらしい部分を幾つか和歌に仕立て直し短冊に墨書しておいた。

今度先生に見てもらおう。

日が暮れて夕餉を済ませ、虫の音の中の燭明で心地よく『有明集』を眺めているうちに眠りに付いていた。


翌日は午後までを祝詞集の研究に費やした。

夕方近くまた蒲原先生が来て、私が挨拶するより早く玉依姫の前に行き手を合わせている。

余程お気に召したのだろう。

「この像は良いのう。この微かな笑みを浮かべた尊顔の麗しさは他に見た事が無い。」

「先生はこの姫神様の二人目の信者ですね。一番は私ですが。」

「わーはっは、こんな浄域に暮している君が羨ましいわ!」

玉依姫の御前では誰も皆、晴れやかな気分になれるようだ。

今日は先生を筆墨の用意がある母屋の書斎に案内し、祝詞の教えを乞う。


早速祝詞を和歌に直し書き写した短冊を見せると、

「此処は一音足らん。」

「これは上手く行って…」

「この場合は荒風より天津風とすべき…」

などと細部まで具体的に講評してくれる。

蒲原有明の創作の秘訣は、どうやら意味より韻律を重視した同義語の入れ替えにあるらしい。

「幾首か感心する出来映えもある。この調子で良かろう。」


………!

あの蒲原有明に褒められた!!

過去の新之助は短歌俳句を作ってもどこに発表するわけでも無く、誰かに師事した事も無い引き篭もりだったので、これは人生初の称賛かも知れない。

まことに狂喜乱舞すべき慶事だった。

「あっ有難う御座います!」

それ以外気の利いた言葉が出なかった。


「君の父君はわしが東京に居った頃からの友人での、実に立派な人物じゃったよ。

惜しむらくは商才はあったが文才が無かった。それでも文芸好きでよく詩論など戦わせたもんじゃ。己れに文才が乏しいのをわきまえていて、その分わしに異国の詩書などをよく送ってくれた。」

「そうでしたか。あまり日本に居ない父でしたので…………」

「君の文才にも随分と期待しておったよ。」

「………」

「それで祝詞なら出来るじゃろうと一度瘴気祓いに誘ったところ、これにのめり込んでのう。」

「それがあの神器集めですか。」

「そうじゃよ。お互いまだ若くて威勢が良かった。」

新之助の記憶にある父圭介は、常に英国仕立ての背広を着た温厚な紳士だった。

若く血気に逸った瘴気祓いの姿など想像も付かない。


「自分は先祖代々文人高士の家系に生まれた出来損ないだ、父祖の御霊に顔向け出来ないと嘆いておったわ。」

「私にはそんな姿を見せた事はありませんでしたが………」

「三百年続く直参旗本の家柄とはそう言うもんじゃよ。」

「………そうでしたか。」

「確かどこかに朝比奈家重代の書画古文書があるはずじゃ。暇を見て調べておくと良い。」

いや、それはまずい。

ここは上手く誤魔化しておかないと。

「それはこの震災の始末が付いてからでも、追い追いに。」

「ああ、そうせい。わしも家の始末がまだ追いつかん。」

「はい、今日は勉強になりました。」

「おお、ではまた瘴気が溜まったら頼むぞ。」


こうして先生は日暮れまで機嫌良く父のあれこれを語ってくれ、帰り際に自ら染筆の短冊までくださり、恐縮した私は大通りまで御見送りして来た。

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