第3話 幽陰の庵

昨夜は疲れ果てて早い時間に就寝したために、この日の朝はまだ暗いうちに目が覚めてしまった。

まずは水を汲みに裏の玉ノ井へ行き女神像に手を合わせる。

玉依姫に取っては何百年振りの朝日だろうか。

早朝のこの場所はこれまで私が体験した事が無いほど清浄な感じが溢れていて、岩壁には朝の木漏れ日が移ろい、微かな水音に時折り早起きの鳥の声が混じる。

足元には小さな秋の草花が何種類も咲き乱れている。

これこそ浄域とでも言うのだろうか。

東の祇園山の上が暁に染まり、裏山では蜩が鳴き出す。

やぐらの手前に咲いた桔梗の青が空気に染み出すように涼しげだ。


レトルトパスタで朝食を済ませ、今すべき事を整理する。

もう一度母屋と納屋をじっくり調べ、この時代の現金が見つかれば多少は持っていたい。

過去の新之助の記憶もだいぶはっきりして来たから、そう時間は掛からないだろう。

昨日開けなかった離れの茶室も見てみよう。

また時間があればまた駅前まで行って情報を仕入れよう。

未来の知識があるといっても大きな出来事しか知らないし、地元の細かな情報は聞いておきたい。

あとは食糧があれば調達したいが、まだ商店の営業再開は無理だろう。


母屋の各部屋はすっきりと整頓されていて、地震による被害もほとんど無かった。

まずは現金だが厨の戸棚に三十円ほどの手元金があった。

大正の一円は現在では五千円くらいだったはずだ。

次に昨日は動転していて気付かなかったが、地味な色とは言え21世紀のズボンとシャツはまずかった。

さっそく元の新之助の部屋にあった紺絣と兵児帯に着替えた。

あとは厠と風呂はそのまま使えそうだ。

南向きの座敷の障子を開けると趣味の良い和風の庭が見え、秋風の通う畳に寝転がると鱗雲が空一面を埋めて進んで行く。

大震災も忘れるほどの心地良さは、何だか世間に対して申し訳なく思うほどだった。


東側は書斎になっていて、北窓を開ければ庭木の向こうに離れと玉依姫のやぐらが見える。

飴色に磨き込まれた大振りな一枚板の文机は江戸時代の物だろう。

机上には唐物の筆立と古端渓硯、窓際に置いてある竹籠の花入も百年は使い込んだ物だ。

まさに明窓浄机、窓外は花咲き鳥が歌う玉依姫の浄域、今は咲いていないが古梅も数本あり、ここが古の文人の理想の園にも思えて来た。


21世紀の晃介は学生時代から文芸や古美術好きだった。

その為卒業後も文筆で身を立てようと普通の就職はせず、鎌倉の観光案内やタウン誌の原稿などの収入で糊口を凌ぎつつ先々は作家を目指していた時に、奇しくもこの災厄に遭遇してしまった訳だが。

そもそも我が朝比奈家は徳川幕府の祐筆、つまり書記だった事から、代々詩書画文筆を仕込まれて来た家系だ。

今から見れば商才に恵まれた圭介だけが突然変異だった以外は、晃介も新之助も他の祖先達もみな言わば文人向きの資質だった。

元来本好きの私はこの書斎での書見三昧の日々を思い浮かべ、同時にこれまでの己れの生活が如何に貧相だったか思い知った。

パソコン一台あれば全てが可能だと乱雑な机上に花一輪さえ飾る事無く、あくせく雑文を書いては糊口を凌ぐだけの生活に、何の疑問も抱かないような凡俗だった。

比べてここは普通の六畳間に障子窓、文机と書架と置き床があるだけの、この時代なら取り立てて贅沢でも無い部屋なのに、俗世を離れた幽境の気がある。

昭和以降の我が先祖達は折角のこの家を代々滅茶苦茶にして来たのだ。

私も21世紀では半端な洋風に改装されていた一階を仕事部屋として散らかし放題だったし、二階も自室以外は物置きとして雑多な物を放り込んだままだった。

またこの庭も京都辺りの有名寺院はおろかちょっとした料亭や旅館にも及ばないごく普通の造りだが、簡素ながら全ての物が自然と調和すべく選び抜かれている。

大正までのうちの御先祖様は結構高雅な人々だったらしい。

私にはもうこの時代で暮らして行く不安など綺麗さっぱり消えていた。


離れの茶室はまた一層簡素で、ただの藁葺き小屋に炉と狭い床の間を付けたような造りだった。

裏に付け足した納戸のような水屋に侘びた茶道具一式が揃っている。

抹茶碗などの古くて良い物はここに置いてあり桃山茶陶まであった。

食器類はここの茶道具と厨の方には普段使う物、納屋には客用の物と分けていたようだ。

入口は躙り口ではなく普通の障子戸で、窓を開け放てば裏山を借景とした桔梗や秋草の楽土のような景が広がる。

私は茶の湯の作法は最低限しか知らないが、父から伝授された掻き混ぜて飲むだけの胡座点前で抹茶ラテやミルク珈琲を飲むのは好きだった。

それらをこの茶室で飲むのはきっと極上の楽しみだろう。


茶室でだいぶのんびりしてしまったがさっそく二階にある以前からの新之助の部屋を今後の寝所に定め、生活必需品を残して21世紀の物は元の晃介の部屋に封印し、厨その他も使えるようにした。

衣類は新之助の部屋にある物で足りる。

そんな片付けの作業で一日が終わった。


翌日は厨の竈で湯だけ沸かしカップ麺で朝食を済ませ、鎌倉駅周辺や役場に情報収集に出た。

未来の知識がある私には、鎌倉の救援はごく速やかに進んだ事がわかっている。

それには横須賀海軍の全面協力が大きな力となったようだ。

我が国を代表する武神の社である鶴ヶ丘八幡宮は当然横須賀海軍の守護神でもあり、また海軍の御偉方も多く鎌倉に住んでいた事もあって、軍の総力を挙げて救援復興がなされたのだ。

なので私が知りたいのはむしろこの時代の人々の普通の暮しや話し方、商店の様子や細かな街角情報だった。


大通りは既に軍が出動して大きな瓦礫はどかされ車両の通行も可能になっていたが、繁華街だったあたりにはまだ燻った匂いが立ち込めていた。

駅周辺の火災跡や瓦礫はそのままだが駅舎は無事で駅前広場には救護のテントが立ち、ここにも軍の医療班が活躍している。

怪我人も今はまだ倒壊の恐れが残る建築物よりも、こうしたテントにいた方が安全なのだろう。

食糧の炊き出しも数ヶ所で行われ、避難民にも十分に行き渡っているようだ。

将校らしき二人が東京方面の被害を話している。

私には既知の事だが東京は大火災が数ヶ所も発生し、恐怖に駆られた民衆の暴動も起きている。

横浜でも大火災があった。

痛ましい事だが今の私には知っていてもどうしようも無い。

その後役場の方に回ると掲示板には夥しい探し人の張り紙と、救護所や炊き出し場所の大きな張り紙が見える。

役場の建物も倒壊していて外に椅子机を並べ市民に対応していた。


そんな中で私が注意深く観察していたのは人々の口調だった。

勿論21世紀の口調とは微妙に違うが、それよりは人によっての違いが大きい。

階級や教育による差がまだ大きかった時代なのだ。

これなら少し気をつければ今の私の口調でも奇異には思われないだろう。

もし新之助の知人に会っても震災のショックで少し変わったくらいで誤魔化せそうだ。


下馬の辻近くの市場があった辺りの路上で傷んだ野菜と卵を売る人がいた。

地元農家の古老と言った風貌だ。

「これは有難い。幾つか頂いて行こう。」

「地震だろうが嵐だろうが、鶏は卵を生むんでね。」

禅問答のような会話が新鮮だ。

卵と茄子をニ三個買って、これで今晩は米を炊き味噌汁を作ろう。

この時代に来て初めてのまともな炊事だ。

帰り際に八幡宮の救護テントをちょっと覗いたが、家に帰れたのかあの巫女の姿は無かった。


帰宅して炊事の準備を始める。

良く見れば厨の上の梁にも小さな神棚があり、竈の神の恵比寿大黒が祀ってあった。

そこにも灯明を供え、正月では無いが厨始めの儀と柏手を打つ。

勝手口から桶を持って出て、やぐらの玉依姫に手を合わせてから玉ノ井の水を汲んで来た。

竈と釜の炊飯は自信が無かったが枡で計った米を研ぎ目分量の水加減で、難儀しつつも薪木に火を付けた。

「始めちょろちょろ中ぱっぱ、だったか。」

うろ覚えの火加減で多少失敗しても、食べられない事は無いだろう。

それより子供時代のキャンプにも似た楽しさが勝る。

隅に積まれていた箱膳を一つ取り出して開けると、古伊万里の皿碗に黒漆の汁椀と箸が入っている。

いわゆる一汁三菜の組膳になっているが、今は一汁一菜でも十分満足出来る。

釜から泡が吹き出したので薪木を加減し皿碗を拭いておく。

釜が泡を吹かなくなったらしばらく蒸らし、代わりに鍋を火に掛けて煮干を入れる。

鍋が煮立ったら刻んだ秋茄子と味噌を入れて出来上がり。

厨の土間にある調理台も古木を使った立派な物なので、今晩の食事はそこで済まそう。

古き良き器に汁飯を盛り付け、生卵と醤油を掛けて掻き混ぜる。

粗にして究極のかけ卵御飯だ。

炊飯の水が少し足らなかったようだが、土間の厨で蝋燭の灯で薪と釜で炊いた飯は、これまでのどんな高級レストランの食事にも勝る満足感があった。

「………何だか、百年前の暮しの方が良かったんじゃないか?」


今日はこの時代の町で実生活の経験も積めた。

長い目でみれば鎌倉の震災からの復旧も歴史通り順調に進むだろう。

庭は秋の虫の音に溢れ、星々は未空の汚れてしまった21世紀より遥かに輝いている。

もう此処が我家なのだ。

転生の身を隠す幽陰の庵だ。

私は寝所が変わったにも関わらず、安らかに眠りに付いた。

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