第55話【余韻】

「荻原さん、何かいいことでもあった?」


 バイト先の休憩室。遅番の開始時間までまだ15分ほど余裕がある私は、パイプイスに座って本を読んでいた。


「え、やだ。そんなに顔に出てた?」

「うん。結構分かりやすく」


 大学の講義終わりに急いでやってきたらしい櫛枝君くしえだくんは少し息が上がっていて、穏やかな顔に薄っすら汗を浮かべながら少し離れた場所に座った。


「......実はね、私、彼氏ができたの」

 

 言おうかどうしようかちょっとだけ迷ったけど、櫛枝君になら別に問題ないよね。


「そう、なんだ。おめでとう。相手はやっぱり例の人?」

「.......えへへ」

「そうなんだね」


 自分でも頬が緩むのが知覚できる。

 一昨日の夜からずっとこんな調子なのだ。

 大学で講義を受けていても、家でお風呂に入っている時も、とにかく何かをしていても頭の中のセンターに吉田さんがいるのだ。

 北海道にいた頃から吉田さんのことを忘れた日はないにしても、まさか恋人になった途端にこの有様とは。恋は盲目とはよく言ったものだ。


「じゃあ土曜日のデート上手くいったんだ」

「これも櫛枝君のおかげだよ。ありがとね。初めてのバイトでまだ慣れてないのに、終わってからもいろいろとデートの相談に乗ってくれて」

「そんな、僕は別に。ただ荻原さんの話相手になっただけで。全ては荻原さんの力だよ」


 櫛枝君は慌てた表情で両手を肩の前で左右に振った。

 その様子がどこか小動物っぽくてつい鼻を鳴らしてしまう。

 

「正直言うとね、多分振られるんだろうなってある程度覚悟はしてた」

「荻原さんが振られる? いやいや絶対ありえないから」

「私、櫛枝君に普段どんな風に見られてるのかな」


 彼はお世辞が上手い。人を不快にさせない絶妙な塩梅はある意味尊敬に値する。


「前にも言ったけど、彼には長年好きな人がいて、私の入り込む余地なんて全然なくて。だから好きな人との最初で最後のデートのつもりで思いっきり楽しんだんだ」

   

 吉田さんや、その周辺のいろんな優しい人たちに出会えたのは本当に奇跡としか思えない。

 たった一度の偶然の出会いが数珠じゅずつなぎのように私を導いてくれた。

 また奇跡に甘えるようでは、それこそ私が理想とする大人からもっとも乖離かいりしてしまう。

 時間をかけて吉田さんを篭絡ろうらくさせる手も考えはしてみたが、もしも吉田さんの後藤さんに対する好きの気持ちが変わらなかった場合、それはただやみくもに二人の幸せを遠ざける行為でしかない。


 私は吉田さんにも、後藤さんにも幸せになってほしい。

 言ってることが凄く矛盾を含んでいることは理解している。

 でも人の感情とはそんなものではないだろうか。

 理屈で解決しないからこそが人間の証明。

 綺麗ごと大いに結構。

 だって、綺麗ごとで済むことが誰にとっても一番の幸せなのだから。


「......なるほどね。力を抜いて臨んだのが逆にいい方向に進んだのかもしれないね」

「櫛枝君も今度女の子とデートする時はそんな風に意識してみたら」

「僕の場合、その女の子とデートするまでが難関なんだけど」


 困ったような笑みを浮かべ、こみかみをポリポリと掻く櫛枝君。


「え~。櫛枝君って誠実で優しいし、私からしてみたらモテないほうがおかしいのに」

「荻原さんにとってはモテ要素でも、他の女の子たちにとっては退屈なんだってさ」

「見る目ないねその女の子たち......あ、ごめん。もしかして私、余計なこと言った?」

「ううん。謝らくても大丈夫だよ。今となってはもう過去の話しだから」

 

 いけないいけない。自分が上手く行ったからって、つい浮かれモードで調子に乗ってしまった。

 頭を落ち着かせようと入店時に買った飲みかけのカフェラテを一口飲む。

 甘すぎず苦すぎず、コーヒーとミルクが絶妙なバランスで互いを尊重しあっていて、うちのお店の人気メニューなのも頷ける。

 あ、そうだ。


「ねぇ、今度私が女の子紹介してあげようか?」

「荻原さんの友達......ちなみにどんな子?」

「私と同い年の大学生で、学年は一個上ね。小説家を目指してる子で、ちょっと気が強い部分はあるけど、美人で櫛枝君と同じで誰にでも優しくて真面目。私が東京に出てきてから最初にできた友達で、親友の一人でもあるの」


 幸せのお裾分すそわけの意味も込めて、櫛枝君とあさみを会わせてみるのも面白......コホン、いいかも。

 雑食系男子(肉食の割合多め)な吉田さんと比べたら櫛枝君は圧倒的草食系男子のイメージ。

 でもそれは私がまだ知らないだけで、案外櫛枝君も肉食系な部分も持ち合わせている可能性だって充分ある。


「確かに、スラっとした感じの美人さんだね」

「でしょ?」

「考えておくよ」

「よろしくね」


 スマホの待ち受け画面の吉田さんと私と一緒に映ったあさみの写真を見て、櫛枝君はまんざらでもなさそうに画面を凝視する。

 動と静。恋人同士に発展しなくても、きっと二人はいい友達になれると思う。

 なんの根拠もないのただの直感が私にそう告げていた。

 

「そろそろホールに向かったほうがよくない?」

「そうだね。櫛枝君は今日もレジメインだっけ」


 壁にかかった時計の針が丁度シフトの開始5分前を指していた。

 読んでいた本を休憩室の本棚にしまい、パイプイスを長机の下に入れる。


「荻原さんほどまだシフトに入れてないから。そっちはもう軽食まで作れて凄いよ」

「と言っても簡単なやつ限定だけど」

「さっきも僕が来る前まであの分厚いマニュアル読んでたし。荻原さんはどんなことにも全力で尊敬しちゃうな」

「そんなことないよ」


 櫛枝君はいつも私を褒めてくれるけど、全ては吉田さんのおかげ――そんな初恋の人の恋人になれて本当に良かった。

 二人で休憩室をあとにしながら、また私の頭の中は吉田さんのことでいっぱいだった..

....バイトが終わるまでは。



          ◇

 次回、第56話は10月4月(金)の午前6時01分に投稿予定。

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