第56話【謝罪と、感謝と.......】

 二年ぶりにやってきたその場所。

 インターホンを鳴らし、マンションの入り口を開錠してもらい、エレベーターを使って部屋の前まで辿り着く。

 一度大きく深呼吸し、緊張で少し震えた手で玄関の扉を開けると、部屋の主が笑顔で出迎えてくれた。


「コーヒーでいいかしら。と言っても今はインスタントしかないけど」

「あ、はい」


 カウンターキッチンから後藤さんが私に向かって訊ねる。

 ポットのお湯が沸くまでの間、ソファーに座りながら手持ち無沙汰で辺りを見回す。

 前回来た時よりもなんとなくリビングが気持ち少しスッキリとした印象を受けた。

 ふと、カウンターの上に置かれた写真立てに目がいく。

 御座敷おざしきのような場所で複数の男女が肩を寄せ合って集合した写真は、おそらく会社の飲み会で撮ったものだろう。

 その中には柚葉さんや橋本さんもいて、それからセンターの後藤さんの横で分かりやすく鼻の下を伸ばしている吉田さんの姿も。


「あの、お仕事は」

「ズル休み」

「え」

「な~んて、嘘。昨日今日と有給をいただいているの」


 真っ白なカップに入ったインスタントコーヒーを二つ持ってきた後藤さんは、私にその片方を渡し、ソファーの端に静かに腰を下ろした。


「仙台に戻る前にどうしても沙優ちゃんとお話ししたくて」

「仙台?」

「私いま、仕事の関係で仙台支部に期限付きで出向中なの。吉田君から聞いてない?」

「いえ」


 初耳だ。吉田さんはそんなこと一言も口にしていない。

 まぁ、部外者の私に言う必要のない話ではあるのだけれど。


「慣れない土地で仕事するのって結構ストレス溜まるのよ。おまけに仙台支部の重役たちときたら、役職ばかり上で仕事できない人たちの集まりだし」

「は、はぁ」

「だからストレス発散のけ口がお酒と食べ物に行っちゃうのは仕方のないことだと思うの。聞いてよ沙優ちゃん。まだ仙台に出向してから一ヶ月も経ってないのに―― 」

「そんな世間話をするために私をここまで呼んだわけじゃないですよね?」


 話しの腰を折るように口を出すと、後藤さんは一瞬目を丸くし、黙って首を小さく縦に振った。


「吉田君からはどこまで?」

「後藤さんとは決着がついたとしか」

「そう」


 吉田さんと結ばれた次の日の夜。

 スマホに彼から短く『後藤さんとの決着をつけてきた』とメッセージが届いた。

 それ以降、吉田さんとはまだ直接会っていない。

 長年好きだった相手を自分自身の手で振ったのだ。いくら彼女成り立てな私でも、彼に傷心にひたる時間くらい与えてあげたい。


「......私ね、吉田君の前で沙優ちゃんのことを侮辱したの」

「侮辱、ですか」


 両腿りょうももの上に手を置き、猫背気味にカップの表面を眺める後藤さんが、ぽつりと言った。


「自分から沙優ちゃんとの関係をはっきりさせてほしいと言っておきながら、いざ負けが確定したと思ったら怖くなって。この期に及んで吉田君に私と沙優ちゃん、どっちが恋人ととして相応ふさわしいかお試しで二人と付き合ってみないかって提案したの。吉田君がそんな不誠実な提案を飲む人間じゃないことを知ってるのに」

「......」


 何も言葉が出てこなかった。

 私が初恋の人との交わりを思い出し家で発情している間、二人にそんなやり取りが起きていたとは。


「でね、私そこで吉田君に言っちゃったの。「夜の営みに関する技術面では沙優ちゃんには劣るけど、この身体なら吉田君を満足させてあげられる」って」

「......最低ですね」

「本当に、弁明の余地もないわ。ごめんなさい」


 後藤さんはテーブルの上にカップを置き、姿勢を正すなりそのまま私に深く頭を下げた。

 言ってみれば、後藤さんが吉田さんに対してやってきたことは自業自得だ。

 フォローするに値しない、彼の気持ちを散々ともてあそんできた、救いようのない酷く自分勝手な行為。

 同姓の私でさえ嫌悪感を抱いてしまう。なのに......。


「――顔をあげてください。後藤さんの言うこともあながち間違ってはいませんから」

「沙優ちゃん?」

 

 優しく肩に手を添えれば、恐る恐る後藤さんは私を見上げた。うん。心の底から悪いと思っている人の表情だ。


「二年前。吉田さんと出会う前の私は、宿を確保するのに必死で、女の子にとって一番大切なものをぞんざいに捨ててしまいました。できるだけ長く泊めてもらうために、その......男の人を喜ばせる技術も率先して学んだりして......とにかく何を言いたいかと言うと、私にだって最低の過去があります。だからあんまり自分を責めないでください」

「でもそれとこれとは――」

「後藤さん!」

「は、はい!」


 驚いてその場で背筋をピンと伸ばした後藤さんの目を正面からじっと捉えて、彼女の手を握った。


「私、後藤さんのことが心底羨ましかったんです。ずっと吉田さんの近くにいられて、想ってもいられて......人に明確に嫉妬したの、多分後藤さんが初めてだと思います。恋敵でもあり、恩人でもある......だからこれ以上自分をおとしいれないでください! いつまでも私の理想とする大人の女性でいてください!」

「......ダメよ」

「え」


 空いている方の手を私の手に被せ、言った。


「私なんかを理想としちゃダメ。沙優ちゃんは誰にも流されず、ありのままの魅力で輝かなきゃ。じゃないと、せっかく吉田君が選んでくれた意味がないでしょ」

「......はい。そうですね」

「もう、なんで沙優ちゃんが泣いてるのよ」

「そういう後藤さんだって......」


 互いに泣き顔を指摘し、揃って破顔した。

 化粧がとれたってかまわない。

 目が腫れて、このあとの遅番のバイトに影響も出るだろう。でもいいんだ。

 偶然同じ相手を好きになって生まれた奇跡的な友情を、今くらい思う存分味わっていたい。


 *

 

「――後悔してます? 私が東京に戻って来る前に、吉田さんと恋人にならなかったことを」


 帰る直前。

 玄関で靴を履き終え、最後にどうしても後藤さんに聞いておきたくて、訊ねてみた。


「今は後悔半分、満足半分、といったところかしら」

「正直ですね」

「人の気持ちなんてその時その時で変わるものよ」

「そんな時価みたいに言われても」


 いつか私の吉田さんへの好きの想いが揺らいでしまう時が来るのだろうか。

 なんて、起こるかどうかもわからない出来事への不安を察したのか、後藤さんが一段高い場所から抱き着いてきた。


「大丈夫。あなたは私や神田さんとは違うわ。吉田君と一緒で、自分のことよりも相手のことを何よりも思いやる素敵な女性よ。私たちの分まで幸せにならないと許さないんだから。分かった?」

「......また、会えますよね?」

「ええ。もちろん」


 表情は見えなくても微笑んでいるのが声音から分かる。

 私も後藤さんの背中に手を回し、ぎゅっと力を入れて。


「はい......ありがとうございます」

 

 と、精一杯の感謝の気持ちを伝えた。

 恩人、恋敵、そして女友達兼東京のお母さん。は、さすがに本人に言ったら怒られそうだけど。

 将来はこんな包容力もあっていい匂いのするお母さんに、私はなりたい。

 身体を離し別れる際、ドアが完全に閉まるまで、後藤さんは笑顔で手を振り見送ってくれた。

 まるで「いってらっしゃい」と、新たな門出を祝うような姿。思わずまた胸が熱くなった。

 ――あの時の後藤さんは、もう既に仙台支部に残留を、私たちの前から姿を消すことを考えていたのかな。


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