SS5【帰り道】


「――あ。吉田さん、こっちこっち」


 自動ドアのゆっくり開くスピードに若干焦らされ外に出ると、近くの並木の下にいた沙優が控えめに手を振り声をかけてきた。 


「悪いな。帰りがけにちょっと他のリーダーに掴まっちまってな」

「ううん。大丈夫だよ。私もさっきまで柚葉さんたちとお喋りしてたから」


 俺の仕事終わりに合わせ、こうして沙優が会社の前まで迎えに来てくれるのも随分と慣れてきた。

 少し前までは沙優の存在を知られることに抵抗があり、待ち合わせをするにしても会社からある程度距離の離れた場所で落ち合うことが多かったが、会社公認? になった今ではそんな気を遣う必要もなくなった。


「今日も一日お仕事お疲れ様でした」

「沙優の方こそ、大学お疲れさん」

「こっちはお疲れさんって言われても、今日は三限だけしか講義なかったんだけどね」


 沙優がカイロ代わりに両手で持っていた缶コーヒーを受け取り、飲みながら駅に向かって歩き始める。


「だとしてもお疲れさんには変わりないだろ。大学の講義の三限目って、他の時間の講義と比べてもっとも睡魔が襲ってくるだるい講義なわけだから」


「さすが。経験者は語る、だね」

「ほっとけ」


 昼食後は最低でも二時間くらいは心身の切り替えタイムとしてほしいところ。

 社会人になった今でもその考えは譲れない。


「どうして食後ってあんなに眠くなるんだろう」

「生物の体は栄養を消化・吸収するのにもの凄く体力を消費するからじゃないか」

「吉田さん詳しいね」

「ちなみに人間がセ......いや、何でもない」


 ここが人目もそれなりに多い屋外だということを忘れ、つい恥ずかし気もなく性に関する薀蓄うんちくを垂れそうになり、言葉を飲み込む。


「え〜、言ってよ〜」

「わかってるなら指をにぎにぎするな」

「私はいま吉田さんの口から聞きたいんだけどな〜」

「勘弁してくれ。部下が近くにいて訊かれでもしたらリーダーとして終わる」


 絡めた細く綺麗な指が、俺のごつごつした指を怪しい手つきで誘惑する。

 こういう話はピロートークの時だったらいつでも言ってやるから。

 そんな時、横の車道から『プップー!』とクラクションの音がし振り向くと、橋本が乗った車が駆け抜けていった。


「あいつ......驚かせやがって」

「橋本さん、凄いニヤニヤしてたね」


 一瞬だけ合った橋本の眼鏡の奥からは、確かにからかいの視線を感じた。


「明日の朝礼でよそ見運転するなって文句言ってやる」

「まぁまぁ。橋本さんには日頃から助けてもらってるんでしょ? 少しは大目に見てあげてもバチは当たらないと思うな」


 リーダーとなった俺にとって、もっともチームの中で頼れる存在となるのは橋本に他ならない。

 本人は相変わらず出世にあまり欲がない様子だか、奥さんがいて、車、その上マイホームまで持っている。

 将来を考えたら多少は出世して稼いでおかないと何かあった時に絶対困ってしまう。

 二年前の沙優の件でも何かと助けられ、橋本の奥さんからも旦那をよろしくと頼まれていることなので、多少の許してやるとするか。本当に多少だぞ。


「......沙優がそう言うなら」 

「私の言うことなら何でも言うこと聞く吉田さん、ちょろ過ぎ」

「何か言ったか?」

「ううん。別に。コーヒー一口ちょうだい」


 空いている方の手で俺から缶コーヒーを受け取り、味わうように口の中で少し転がしてから飲む。


「受け取る時くらい手を離しても」

「吉田さんが寂しがるかと思いまして」

「子供か俺は」

「毎晩オオカミから赤ちゃんに幼児退行するのはどこの誰かなー」


 公共の場だろうが、沙優は俺に対して余裕で容赦なく論破してくる。

 見た目だけでなく、中身も成長がいちじるしい彼女に勝てるのは、もはやベッドの上でのみ。


「俺だよ」

「正解。よく言えました」

「うるせえ。ちゃんと前見ながら歩かないと転ぶぞ」


 いじらしい小悪魔的な笑みを浮かべる沙優から缶コーヒーを取り返し、残った中身を全て飲み干す。

 飲み口に付いた女性もののリップクリームの感触に沙優を感じ、本物の唇をまじまじと見る。主張の激しくない、大学仕様の淡いピンクに彩られたそれは、素材が良いからかそれでも充分に魅力だった。

 

 信号待ちでドラッグストアのショーウインドウの横に立ち止まると、ふと俺と沙優の姿が並んで映し出されているのが目に入った。

 仕事でくたびれたおっさんと、可愛いと綺麗が奇跡的に均一で成り立っているJD。

 手を繋いでいなければ、絶対に恋人同士には見えないであろうアンバランスな二人がそこに。

 

「どうしたの吉田さん? ショーウインドウなんかじっと見て」

「ん? ああ。またひげが伸びてくるのが早くなったなと思ってさ」


 誤魔化し笑いを浮かべながら両の頬に手を伸ばす。

 ジョリジョリと指に引っかかるひげの音が、感覚としても耳元に小さく届く。

 仮に伸びたひげをしっかり剃り、身なりを整えたとしても、果たして今の俺は沙優の隣に並んでも恥ずかしくない人間でいるだろうか?

 自問自答した日は今日だけではない。

 沙優と恋人同士になってから定期的にその疑問に駆られては、毎回自分なりの応えを出して乗り越える。その繰り返しだ。

 こんな一回り近くも年の離れた男の告白を受け入れてくれた沙優に、少しでも恥じないパートナーでありたい。これからも......等とアンガーマネジメントをしていると、頬

に一瞬鋭い痛みが走った。


「......えい」

「痛ッ! お前なあ~、抜くなら抜くって先に言ってから抜け」

「ごめんごめん。鼻の下に一本濃いひげがあったもんだから、ついね」 


 よりよって一番手で抜かれると痛い部分を抜いてくるとは。

 その抜いたひげを息でふーっと飛ばし、化粧で美人三割増しの笑顔で謝罪した。


「お詫びに今日の夕飯は吉田さんの食べたい物を作ってあげるからさ。何が食べたい?」

「んー、そうだな......長ネギの味噌汁」

「本当に考えた?」

「考えた考えた。そのくらい、俺にとって沙優の作った味噌汁は特別なんだよ」


 初めて食べた沙優の料理にして、沙優の作る料理の代名詞、味噌汁。

 日々の活力の大半は、沙優の味噌汁によって賄われていると言っても過言ではない。

 だが指を強く絡め、上目遣いではにかむ姿に『沙優を食べたい!』と思ってしまったのは、どうしようもない男の嵯峨さがだった。



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