第29話【ディナー】

「凄い! また上に飛んでった!」

「はぁはぁ......たかが90球分振るだけなのにこのざまかよ......やっぱ現役時代と比べて大分体力落ちてん...な!」


 実に高校時代ぶりに握った金属バットは思ったより重く、一回振る度に腕全体の筋肉に結構な負担がかかる。

 勘自体はすぐに取り戻せたので野球部の面目は保てたが、体力ばかりはどうにもならない。

 根性でラスト一球も快音と共にバックネットへ叩き込み、なんとか有終の美を飾った。


「お疲れ様」

「...おう。サンキュー」


 バッターボックスから戻ってくると沙優から温かいおしぼりを受け取り、汗の噴き出した顔を拭う。


「吉田さん、おしぼりで顔拭いちゃうなんて。おじさんだね」

「いいだろ別に。綺麗な布には変わりないんだから」

「でも眉毛に糸くず付いてるよ」

「マジか。どこだ?」


 おしぼりで顔を拭く彼氏に引くでもなく、「しょうがないな」と笑って受け入れ取ってくれる。

 恋人になる以前から生活を共にし、いい部分も悪い部分も知られているからこその成せるわざだ。


「はい。取れたよ。ついでに白髪も見つけちゃったけど抜いとく?」

「お願いします」

「はいはい。おじいちゃんじっとしててね」

「そこはせめておじさんにしといてくれ」


 美術館では思いがけず今はもう会えない友人を思い出し、気持ちが沈んでしまった沙優。

 時間まで秋葉原方面を適当にぶらつきながら移動し、たまたま発見したバッティングセンターで気晴らしにと誘ってみたが、いつもの愛らしい笑顔を取り戻してくれたようで何よりだ。



 時刻は夜6時を回る10分前。

 デートの締めとして予約していたフレンチの店に到着。

 平日の夜は仕事終わりのサラリーマンたちでそこら中賑わう新橋の街も、土日となると全く別の静謐せいひつな表情を見せる。


「すみません。今日の6時に予約を入れている吉田というものですが」

「少々お待ちください」


 愛想の良さそうな女性のウェイターに席へと案内される。

 少々レトロな店構えをした店内。静かで落ち着いたBGMが流れ、見るからにお高いだろうテーブルセット。壁には雰囲気にマッチした作風の絵画に観葉植物。客の年齢層も少々高めで、洒落しゃれつつ品のある空間を演出している。

 沙優は着ていたコートを脱ぐと、相変わらず見惚れてしまうほど綺麗な所作でイスに腰を下ろす。


「では、沙優の二十歳の誕生日を祝して――乾杯」

「乾杯」


 コースの前菜が運ばれてきたタイミングで、俺たちはグラスを交わし、スパークリングワインに口をつける。


「どうだ? 大人の飲み物の味は?」

「えーっとね......味の薄い炭酸ジュースみたいな感じ?」

「わかる。俺も初めて飲んだ時そう思った」

「だよね。吉田さんもなんだ」


 歳をとるとジュースのように甘さの主張が強い飲み物より、控えめな甘さでいい気分になれる方を好む味覚へと変わる。

 多分子供の頃は苦手だった苦味の強い食べ物が、大人になって何の抵抗もなく食べられるようになる現象と同一の摂理だ。


「いい雰囲気のお店だね」


「だろ? 以前仕事の用でこの辺まで来た時に偶然見つけたんだ。あの時はランチの時間だったけど、沙優ぐらいの年代の女性が結構いたからさ。ここなら気に入ってくれるかと思ってな」


「さすがは吉田さん。私のことをよくわかってらっしゃる」


 既に頬をほんのり赤らめている沙優。

 リサーチがてら入っても良かったんだが、サラリーマンのおっさんが一人で入るにはちょっと勇気がいる。

 本当にネットの口コミサイト様様だ。

 スマホを使えば知りたかった情報がいとも簡単に手に入った。


「沙優はこういう店に来るのは初めてなのか?」

「北海道に戻ってから、兄さんと何回か行ったことあるよ」

「仲良い兄妹の証拠だな」

「ていうか、母さんは昔からあんまり外食するのが好きじゃなくて。もう何年も三人で外食したことないんだ」


 沙優の母――俺の中の記憶に存在するその人は、鋭い眼差しで実の娘をヒステリック気味に責める印象がどうしてたって強い。

 その母親とも仲直りとまではいかなくとも、関係はある程度改善されたようなのは純粋に嬉しく思う。


「だから今日みたいな記念日は、普段使わないちょっと高めのデリバリーを使ったり。もしくは兄さんが帰って来てる時は料理を作ってくれたりしてくれるの」


「え? 一颯さん料理できるのか?」

「その言い方。本人が聞いたらきっと怒ると思うよ」


 失言をとがめながら沙優は口元を手で覆い、上品に笑った。

 

「伊達に若くして冷凍食品会社の社長はしておりませんので。プライベートでも暇さえあればSNSでレシピを検索して作ってるみたいだし」


「驚いたな。スペック高すぎかよ」

「料理をするのが本人のストレス発散にもなってるみたい」


 限られた少ない自分の時間を如何に友好的に活用するか。

 俺とそこまで年齢が変わらない彼が、父親から継いだとはいえ大企業の代表取締役社長を継続できている本質が、またほんの少し見えた気がする。兄妹揃って向上心が高い。


「料理が上手いのは一颯さん譲りなんだな」

「それでいくと、私もお酒に結構耐性があることになるんだよね」

「ああ。確かにな」


 先々月、沙優との件で呼び出された際。

 まぁまぁアルコール度数高めな酒を何杯も飲んでいるにもかかわらず、終始顔をほとんど赤く染めることなく帰って行った。

 だとすると沙優も荻原家の人間。可能性は充分。

 俺の男としての自尊心が、できればそれだけは勘弁してくれと訴えている。


「あの人、実家でも結構飲むのか」

「ううん。実家ではそんなに。たまに飲む母さんに付き合うくらい。私も今年兄さんの東京の家に行って初めて知ったんだ。ワイン専用の部屋があるからビックリしちゃったよ」


 大金持ちの家に必ず存在するという、庶民の酒飲みからしたら贅沢極まりない道楽部屋。

 機会があれば是非一度お目にかかってみたいものだ。


「一颯さん家、どんだけ高い家賃のマンションに住んでんだ......」

「下の階に住人全員が自由に使えるジムとか美容室もあって。それから――」

「待て。それ以上は俺に効く」

 

 一颯さんほど稼げる人間になれる自信は到底ないが、目の前で完璧な化粧の決まった美しい未来の奥さんに楽をさせてあげる男でありたい。

 本気で好きになった人には、いつだって笑っていてほしいし、幸せでいてほしい。

 残りの人生、好きになっていたと気付いた人に、全力で全てを捧げると決めたのだから。


「とりあえず、大人になったら嫌でも酒を飲む機会が出てくる。今後のためにも一度限界を見極めた方がいいな」


「よろしくお願いします。先輩」

「酒飲み歴8年。酒での酸いも甘いもを知り尽くした俺に任せておけ」

「泥酔した勢いでJKを拾った人が言うと説得力があるね」

「うるせえ」


 頼まれなくても無論そのつもりだ。

 誰が大切な沙優のアルコール限界値の測定を他者に譲るものか。

 脱線しかけた話を元に戻し、俺たちは特別な日に特別な場所で、幸せな時間を満喫した。



「ご馳走様でした。また来年も一緒に来ようね」

「ああ。喜んでもらえてなによりだ」

 

 年一とは言わず、半年に一回の頻度でも俺は全然構わないが。

 こういうのは逆に頻繁に行き過ぎても特別感が薄れるかもな。


 会計を済ませ店の外観をちらと一瞥いちべつしてから沙優の手を握り、普段は喧騒に包まれている静かな夜の街中を歩き出す。

 恋人繋ぎと呼ばれる握り方。

 最初は気恥ずかしさこそ当然あったが、慣れた今では他人の視線よりも沙優の温もりを感じられない寂しさの方が勝る。


「――ねえ吉田さん」

「どうした? 気持ち悪くなってきたか?」


 沙優はディナーの最後まで顔こそ赤いものの、意識もハッキリとし、呂律も足取りも何の異常もなかった。


「それは全然平気。このあとはもう家に帰るだけなんだよね?」

「ああ。そうだけど......何処か行きたい場所でもあるのか?」


 沙優の視線が、すぐそこの闇夜に佇む大型ラブホテルのビルに向いていたような気がして。心臓の鼓動が一気に高鳴る。


「うん。良かったら、最後にちょっと寄ってほしい場所があるんだけど.....いいかな?」



 

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