九 佐釜 優子
『調子はどう?良い感じかな?』
帰り道の途中にある公園のベンチに端から見れば背の高い大男にしか見えない天使と私は座っていた。
「まぁまぁ、です…」
私は緊張で背筋をまっすぐに伸ばしてしまっていた。
『そう固くならないでくれたまえ。本当に久しぶりに会えたんだからさ』
そう天使は爽やかな笑顔で微笑んだ。テレビとかで良く見る男性アイドルに勝るとも劣らないそのルックスと百八十センチは優に越えている身長。
あの日から全く変わっていないと思われるその外見は神の御使いならではのものであると言える。
「それで……ご用件とはなんでしょう?」
こうして、この天使とベンチで話をしているのもそのためだ。
どちらかと言えば、これは感動の再会なんてものではない。
私はあの日の事を後悔しなかったと言えば嘘になるのだから。
『単刀直入に言おう。井砂利忠吉を知っているね?彼に浄化執行命令が下された』
一瞬にして私の身の毛が逆立った。
「こ、殺すんですか…?」
『殺すんじゃない。穢れきった肉体から魂を救済し、新たな肉体を与えるのだ』
「て、転生って事ですか?」
私の疑問に天使は顔色一つ変える事なく答えた。
『その通りだ。彼もまた、運が悪かっただけだ。来世ではそんな事にならないよう、我々が見守らねばならない』
さも、当然と言わんばかりに天使は井砂利くんを殺す事を肯定した。
「どうにかなりませんか?」
『ならないね。その事は君が一番分かっているんじゃないかな』
顔色一つ、表情一つ変えないで、天使は私にそう言ってのけた。
確かに、どうにかならないのかもしれない。
あれだけの情念を産み出してしまう彼が、その情念から生まれる思念体に身体が乗っ取られてどんな事態を引き起こしてしまうか分かったものではない。
一人を殺せば大勢を救える。
全くもって合理的なのは分かってる。でも、私はそれを許容する事が出来なかった。
「あの……彼、いつでも負の情念を産み出してしまっている訳ではないです。ちゃんと私が見てれば……」
『それが本当の救いになるのかな?』
天使は私の言葉を遮って言葉を発した。
「彼は生きる事に疲れている。生きる意味が分からず、あの世で母親と会う事ばかりを考えているんだ。そういういわば生存欲求の低い人間の身体は乗っ取りやすい。彼自身、自制はしてきたのだろう。だが、あれだけの情念を身の内にしまいこんで居るのだ。理性が多少狂ってしまっても不思議はないよ」
「それでも、殺すなんて……」
『これはね、君の天使への昇格試験も兼ねているんだよ』
その天使の言葉に私は脳に血が行かなくなった。
(私の……天使への昇格……そんな事のために、井砂利くんは死ぬの……?)
私は動揺で、何かを言おうと口を動かすも声が出なかった。
『動揺しているね。良いかい?君は天使にならなくてはいけない。選ばれた存在なんだ』
「選ばれた?選ばれたらやりたくない事もしなくちゃいけないんですか?!」
私は声を張り上げた。
「無理です!やりたくないです!だって!だって、おかしいでしょう?私と彼はつい一時間前まで同じテーブルで本を読んでいたんですよ!作品に対する解釈とかの話をして、井砂利くんも心のそこから笑ってるって思えるくらいの笑みと愉しさを感じて、その時だけは幸福だったと思うんです!まだ、それでも、彼が死にたいって思ってるなら私がその考えを正します!だから……」
口走る私を天使は見据えていた。その目線は冷たく温かさは無かった。
『君は、百パーセントの自信を持ってその事を言っているのかな?悪いが、彼のために君はいくらの時間を割ける?もちろん、年単位で割いてもらわなければ困るよ。彼がいつ暴発してしまうか分からないからね。しかも、前提条件として君が彼の事を支え、思念体から守るとは言ってもそれが、万に一つも不可能ではないと言えるのかね?』
天使は私に畳み掛けた。大人の正しさが私に降り注ぐ。
『君には立派な天使となって欲しい。そのためには自分が我を通した事で犠牲となってしまう人間達がどれくらいいるのか、それを考えなければならないんだ』
ぐうの音も出ない。
この天使の言っている事は正しすぎる。でも、それを否定したい私がいる。
『天使とは常に冷静で居なければならない。神の予定を遂行するためには私情を捨て、為すべき事を為さねばならないんだ。君はたくさんの人間に祝福を与え、守る存在になるのだからね』
たくさんの人間を守るために一人の人間を殺す、か。
(分かってはいるんだ。合理的だって。分かってはいるんだ……!)
胸の辺りがモヤモヤする。
天使の言葉は理性的には正しく、感情的には受け入れられないものだ。
感情を捨てて、神の予定を遂行するのが天使の役目ならばそんなものになる必要なんてどこにあると言うのだ。
『僕は君を天使にしようと思う。天使になった初仕事として、井砂利忠吉を浄化しなさい。これは命令だ』
命令。
有無を言わせないという事か。
今ここで拒否すればどうなるだろう。
私も殺されるのかな。それとも、説得される?私の意思なんて関係なく服従させられる?
それでも良いかもしれない。
でも、そんな事をしても何にもならない。
私が井砂利くんを殺せないなら、別の天使を送りこんで殺すまでじゃないか。
(なら…私なら…余計に苦しませずに殺せるのかな……殺す事も…救いではあるよね。そうだよね……)
ごちゃごちゃしたヘドロが渦巻くように、頭の中で取り留めの無い不安と希望が頭の中で混ざりあって、息が荒くなって、考えがまとまらない。
『佐釜優子。君に翼を与えよう。寛容さと優しさを持つ土より出でし子、選ばれし心清らかなる人の子よ』
天使は私の背中に左手を置き、少しうつ向くと右手を胸に当てた。
『土より出でし子、神の御手により作られし人の子よ。炎より出でし我らの翼を賜らんことを』
その刹那、私の背中の神経が新たな身体の一部と繋がる感覚と、大きな羽ばたきの音が聞こえた。
驚きながらも私が後ろを向くとそこには純白の大きな翼があった。
途端に心の奥底で自由が叫ばれると共に、責務を痛感した。
皮肉なものだ。自由に空を飛ぶ鳥の象徴足る翼が、天使にとっては忠実と責務の象徴であるのだから。
私は、この翼を意のままに操れる事に実感が湧かなかった。
どうにも信じられなかった私は、何度も何度も翼をバタつかせた。
(本当に私の背中にくっついてる……)
興奮冷めやらぬ私に天使は言った。
「その翼は普通の人間には見えないが、実体はあるため触れる事はできる。人間の多い場所では翼は隠しておくんだよ。今僕がやってみせているようにね」
「えっと、どうやってしまえば…?」
「しまうんじゃない。隠すんだ。やり方は願うだけだよ」
「えっ……?」
「強く念じなさい。そうすればたちまちのうちに消え、また現れる」
天使はなんでもない事のように言った。
私は言われた強く通り念じた。
(隠れろ!)
私の念じた通り、翼はかすかにスッ、と音を立てたのみで消えてしまった。
なんということだ。この世の中にこんな不思議があるとは。
(というか、変な能力を天使からもらってる時点で十分不思議か)
翼を隠せた私に天使は微笑みを送る。
『あくまでも、これは君に力を与えただけだ。まだ天使というわけではないよ。君が天使…つまり、神の御使いになるためにはもっと位の高い方から福音を得なければならないからね。そのためにも、井砂利忠吉を浄化して、現世に存在する闇を少しでも減らし、平穏に保つのだよ』
そうだ、私は井砂利くんを殺さねばならない。
力は与えられてしまった。やるしかない。いや、力を与えて逃げられなくしたのか?しかし、もうそんな事を考えるのは詮無き事だ。
私は、時既に後戻りできない状況に追い詰められた。
私は井砂利くんを殺して天使になるしか道はない。
『頼んだよ。佐釜優子。優しい人の子よ』
胸に浸透するその透き通った優しい声が、私の背中を押した。
まるで、行っておいでと言わんばかりに、邪気を感じない声援だった。
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