五 佐釜 優子

「井砂利くんてさ~、どんな子?」

「何いきなり?」

井砂利くんはクラスメイトからどう思われているのだろう。私はそれが気になって、普段良く話す友達に聞いてみた。

「いや、なんだかんだ言って友達多いけどちょっと変わってるって言うかさ…」

「井砂利くん、いじられキャラだもん。それに、結構世間知らずだし」

「そうかな?そんなに世間知らず?」

「だって……陰キャなのに、あいつらと普通に会話してんじゃん。近づいたらいじめられるって分かるでしょ、普通」

肩をすくめて呆れたようにその子は言った。

「完全に普通じゃないって見た目で分かるっしょ。話してる事とかさぁ」

「まぁ、確かにね…」

井砂利くんをいじめていた連中は見た目からして不良グループといった風貌で、会話の内容も下品な下ネタから煙草の銘柄、深夜にバイクで走行した事など、普通の高校生からは少しというレベルではない程かけ離れている。

その事に気付いた者は彼らと会話する事はおろか、目を合わせる事すらしない。

「気付けないのおかしいよ。たぶん、人を信じやすいんだと思うなぁ………知ってる?一年の時、井砂利くんが音楽室で騙されたの」

「えっ?知らない。何それ」

私がそう言うと、彼女は事の次第を話し出した。

「一年生の時にね、音楽の授業でバイオリンをやったの」

一年生の必修選択科目は音楽か書道で、それを元に音楽選択者だけのクラスと書道選択者だけのクラスに分けられる。

井砂利くんは音楽クラスだったと言うわけだ。

「そこでね、二人一組を組む事になったんだけど、井砂利くんだけ余っちゃって。井砂利くん以外に同じ中学から来てる人居ないから話せる人居なくて一人になっちゃった感じなんだけど、その時に隣に座ってたやつに騙されて、女子にペアになってって言っちゃったの」

苦笑混じりに彼女は顛末を語る。

「なるほどね……」

井砂利くんは純粋すぎるのかもしれない。

それゆえに、人を見る目が肥えていなかったようだ。

「その後、騙したやつが爆笑して、井砂利くんが怒って顔真っ赤にして……それで笑い話になったから良いけどさ……それでも、ねぇ……あいつらに目をつけられるくらいにはバカ丸出しだったって事でしょ」

少し吐き捨てるように彼女は言い切った。

井砂利くんはどうやら、周りから見ても世間知らずで天然な子であったようだ。

それが井砂利くんをいじめている不良達には面白くて仕方がないのだろう。

「関わるの辞めなよ~、優子も。昔からあ~ゆうの救うの上手いけどさ、あいつらにそれは通用しないと思うよぉ」

彼女は中学からの付き合いだった。

さすがに私の力の事は言っていない。けれども、気心の知れた仲だった。

私が何度も周りの人間関係を調整して、時には是正してきたのを目の当たりにしてきた彼女には、井砂利くんの事も助けようとして居るように思えたのだろう。

そんな彼女に私は微笑む。

「分かってるよ。もう少しで卒業だし、あいつらも最近は全然井砂利くんにちょっかいかけてないしね」

そう言いながら心の中がざわつく。

そんな事は無い。

手を替え品を替え、いじめは続く。

学校側に助けなんてこの歳で求められるものか。

小学生や中学生ならまだ分かる。

でも、高校生にもなって先生に助けを求めるなんて事は躊躇われる事なのだ。

恥ずかしさや先生に対する信用度の問題ではない。

屋上への扉の前で彼に疑問をぶつけた時、彼の中で渦巻いた感情、それは怒りでも、悲哀でも、羞恥心でももない。

それは取り留めもない、世間体を気にするといった感情…………。

学校に言えば、親に知られる。友達に知られる。不特定多数の周りの人間に知られる。

名前も顔はおろか、良く覚えていないクラスメイト達にも先生に言った事まで知られてしまう。

彼はそうなった時の、その場の空気が嫌いなんだろう。

そして、自分を責めるような、蔑むような視線を向けられる事が嫌だろう。

まだ、私の彼に対する理解は足りていない。

目に見える心情から読み取っている事も、所詮は憶測に過ぎないのだから。





「井砂利くん」

彼は期末テストの最後の日の放課後、活字の海の中に身を投じていた。

本のタイトルは『完全犯罪』。少しだけ、この文字にドキッとする。

「何?」

少し不機嫌そうにこちらを向く彼の心中は、このタイトルと同じ言葉が渦巻いているのだろう。

井砂利くんの体の表面にはどす黒い情念が浮かび上がってきていた。

激しい感情が体の中で膨れ続け、ついに収まりきらなくなったのである。

井砂利くんの体の表面を薄く、膜のように包み込み、躍動する情念は彼の抱える負の感情が大きすぎる事を表している。

事実、こんな風に身体中から情念が沸き上がってくるなんて事は、私の経験上始めての事だ。並大抵の憎悪や苦痛を越えた、直接的な行動を望む具体的な衝動……それが体から溢れてくるなんて。

「また……何かされた?」

井砂利くんの体の中から赤い眼が、黒く染まった瞼から現れる。

「別に」

その即答が嘘である事など、情念を見ずとも分かる。が、彼の中の赤い眼はさも不機嫌そうに細くなった。

「ねぇ……井砂利くん」

もう、きっと、彼は抑える事を止めたんだ。

私が口を開くと、井砂利くんの両肩からまさしくお化けって感じの小さい仮面の無いカオナシが現れて体に似合わぬ大口を開けた。

“なんだ?この女は?”

“俺たちが見えてんのか?こいつぁ、珍しい事もあるもんだ”

両肩から現れたそれはそう声を掛け合うと、ほぼ同時に井砂利くんの耳に擦りよった。

“目障りだな……殺っちまうか…”

“予行練習と行こうぜ?”

その大口から飛び出したのはそんな言の葉だった。

だが、その言の葉は耳に入るとまるでほうきに散らされた埃のように耳から放られる。

“あ……?”

“え?”

二人(二頭かもしれないが)の小さいカオナシは呆気にとられて、間の抜けた声を出す。

「あんな奴らに何されたって…どうとも思わないよ」

井砂利くんは達観したような表情でそう言った。

今にも暴発しそうな体とは裏腹に、彼は冷静に振る舞っていた。

彼の中で逆巻く負の感情が、一段と激しく胸から沸き上がり、脳天にぶつかってまた胸へと戻っていく。

今にも彼の自我はそれに飲み込まれてしまいそうなのに、彼は涼しい顔で活字を目で舐めている。まるで貪るように、その視線はそれにしかすがり付く事しか出来ないと言わんばかりの、悲哀さえ感じるものだった。

どうにかしなければならない。

彼の中の負の感情を取り払う方法は一つだけ。

あの不良達を彼に関わらせなければ良いだけだ。

(叩けば埃は出るだろうけど……面と向かって突きつけて脅すわけにも行かないし……)

学校を卒業するという事は、ある意味では野放しになるという事と同義である。

ましてや、獲物をいたぶり、喰らう事しか頭に無い野獣の類いなら監視の無い状況で何をするかは火を見るより明らかだ。

(お礼参り……なんて事は…いやぁ、今自分の事考えてる場合?井砂利くんから負の感情を取っ払うのが一番重要なんだから)

私がそう頭を悩ませていた時だった。

「突っ立ってるだけならさ……」

井砂利くんが口を開いた。

「本読めば?図書室だから、ここ。用無いなら帰りな」

ぶっきらぼうに目障りだと、言いだけに彼はそう吐き捨てた。





(あんな事言わなくたって良いのに)

ほとんど、八つ当たりみたいなものじゃないか。

私は少なくとも、彼に悪意を向けた事は無いと言うのに。

私はそう思いながら、図書室の本棚を歩きながら物色していた。

並ぶ本のタイトルはどれも詩的で、何か含みを持っているように感じる。

さぁ、読み取っておくれ。そう言われているような気がして、つい目を背けてしまった。

私は本が嫌いだった。

相手が目の前に居れば、何を考えているのか、何かを感じているのかは沸き上がる情念を見れば分かる。

でも、物にはそれがない。

物に思いを載せる本というものが、私は嫌いだった。

思想本、教養本のような直接何かを教授しようとする物ならまだ読む事が出来る。

だが、冒険小説や推理小説と言った物は作者の意図というものが表だって載せられていないために、私はよく底冷えするような恐怖を感じる事があった。

生物であればその心中を把握する事が出来る。

しかし、物にはそれがない。何故なら物は感情なんて持たない。

それなのに、本は元々、そこに無かった思いを伝える。

作者の思い、考えが紙とインクを媒介にして、読者に伝わる。それが本の役割である事は分かる。

だが、その思いを受けとるのは読者という不特定多数の人間で、その人間の数だけ解釈も変わっていく。

その中でその解釈が一つにまとまる事などあり得ない。

そして、作者はほとんどの場合、その作品に込めた意図を開示する事は無い。

つまり、どういう思いを伝えたかったのか、結局のところ誰も分からないのだ。

だから本は嫌いだ。

読んだ人間によって読み取る事が違えば、作者が伝えたかった事は一切伝わらない。

それでは本を執筆した意味が無くなってしまうような気がしてしまう。

私にとって、自分の思いが相手に正確に伝わらないというのは大事だ。

認識に齟齬が発生すれば、それはいさかいの原因に成りかねない。

現に、ネット上では書物の解釈を巡って激論が繰り広げられている。

もし、解く事の出来ない謎を振り撒き、世間にいさかいの種を撒く事が小説家の役割ならば、そんな人間達は消えてしまった方が良いでは無いか。

はぁぁ……。

私は長いため息をついた。

井砂利くんのためとは言え、嫌いな本の巣窟である図書室に入るなんて我ながら酔狂(すいきょう)そのものだ。

本棚と本棚の間から井砂利くんの方を見やると、彼はまばたき一つせずに、本に目をやっている。

(元々、彼とは相容れない存在なんだなぁ)

私はそう思って図書室から出ようと足を踏み出した時だった。

『自殺』

その単語が目に飛び込んできた。

表現としてあまりにも直接的で完全なる火の玉ストレートを見るものに投げるそのタイトルに、私は思わず足を止めていた。

『異背委課疎過』

作者の方に目をやると、完全な漢字の羅列で思わず表情を歪ませてしまったが、不思議とその本に手を伸ばしていた。

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