第7話 順調な料理教室

 葵が隣に引っ越してきた次の日。空はいつも通りバイトを終えて家に着いた。

 扉を開ける音が聞こえていたのか、手洗いやうがいを終えたタイミングで呼び鈴が鳴る。


「お、来たか」


 玄関に戻って扉を開ければ、そこには溌剌はつらつとした笑顔を浮かべた葵が居た。


「こんばんは、せんぱい!」

「こんばんは。さあ上がってくれ」

「お邪魔します!」


 元気を貰えるようなはきはきとした声は聴き心地が良く、思わず微笑が零れる。

 その笑みを隠すように葵へ背を向け、彼女をキッチンへと案内した。


「野菜はすぐに使うから出しっぱなしでいいぞ。肉だけは冷蔵庫に入れておくか」

「了解です」


 空の指示を受け、葵が手に持っていた袋から材料を取り出していく。

 彼女から肉を受け取りつつ、僅かに頭を下げた。


「買い物に行かせて悪いな」

「いえいえ。教わるんですから私が行くべきです。それに、バイトしてるせんぱいに行かせる訳にはいきません」

「それは俺の事情なんだし、朝比奈が気にする必要はないだろ」

「気にするんですー」


 つん、とした声を発しはしたが、葵の態度が空を気遣ったものだというのは分かっている。

 これ以上引き摺るのは野暮だと判断し、含み笑いを漏らして作業を続ける。


「ありがとな、朝比奈」

「そう言ってくれるだけで十分ですよ」


 心から満たされたかのような、美しい笑み。

 そんな笑みを向けられれば、心臓の鼓動が早くなってしまう。

 悟られないように平静を取り繕い、苦笑を浮かべた。


「それはそれとして、俺のメモ通りに食材を買ってこれるか不安だったけど、意外と何とかなったな」

「……それくらい私にも出来ます」


 ちらりと葵へ視線を送れば、不満そうに頬が膨らんでいた。

 流石に料理の失敗と混同するのは駄目だったかと反省しつつ、食材を冷蔵庫にしまい終えて立ち上がる。


「だよな。それじゃあ早速料理するか」

「う゛ー。せんぱい、いじわるです」


 さらりと話を流そうとしたが、どうやら葵は納得していないらしい。

 低い唸り声を上げられたものの少しも怖くなく、彼女の姿は拗ねた猫を思わせる。


「先輩の性格の悪さを知れて良かったな」


 葵にとって空は恩人との事だが、残念ながら空は善人ではない。

 肩を竦めつつ態度と言葉でそれを示せば、葵が先程までの表情を引っ込め、嬉しさと懐かしさが混ざったような笑顔を浮かべた。


「前から知ってますよ。あの時も、そうでしたから」

「……そうか」


 おそらく、空の忘れている葵と関わった時の事を思い返しているのだろう。

 あまり空に思い出して欲しくないようなので、どう反応すればいいか分からない。

 短い言葉を漏らして調理器具を用意していると、隣から「そういえば」と何かを思いついたような声が耳に届いた。


「昨日はキッチンに入らせてくれませんでしたけど、今日はいいんですか?」

「別にいい。料理を教えるのにキッチンを使わせないなんて無理だからな」


 昨日はあくまで後片付けだけの話だったが、今は状況が変わっている。

 それに日中に葵から連絡が来て、どちらの家で料理するか相談された際、空の家を選んだのは自分自身だ。

 ここまで来て葵が何をするか分からないから使わせたくないと、疑うつもりはない。


「せんぱいが私にどうしても使わせたくないなら、私の家でも良かったんですけど」

「あのなぁ……。簡単に家に男を上げるなよ」


 女性が男性を家に上げるなら、相応の深い関係という事になる。

 それは、今の空と葵では適さない。

 不用心過ぎると苦言をていせば、蒼色の瞳が驚きに見開かれ、それから楽し気に細まった。


「もしかして、心配してくれてるんですか?」

「一般常識を述べただけだ」


 揶揄からかいつつも嬉しさを隠しきれない声に、羞恥が沸き上がってくる。

 動揺に止まった手を動かそうとすると、葵がにまにまとした笑顔で空の顔を覗き込んできた。


「へー、ふーん、そうなんですか」

「……何だよ」

「いーえ、別に。というか、こうして男性の家に上がっている時点で今更じゃないですか」

「それはまあ、そうなんだが」


 今の状況がおかしい事など空でも分かる。

 葵の発言を否定出来ず視線を逸らすと、くすくすと軽やかに笑われた。


「私だって、簡単に男の人の家に上がる訳じゃありませんよ」

「そうしてくれ」


 空の家に上がったのは、恩人だからか昨日一度入ったからなのか。

 いまいち葵の内心を読めないので、考えるのを止めた。


「よし。料理していくぞ」

「はい。お願いします、ししょー!」

「……何で師匠?」

「え? こういう呼び方の方が良いかと思いまして」


 まさかの師匠呼びをされて戸惑ってしまったが、葵はきょとんと首を傾げているだけだ。

 形から入るタイプなのかもしれないと思いつつ、彼女の好きにさせる。


「まあいいや。それじゃあ――」


 そうして、いよいよ料理が始まった。





「これで一段落だな。暫く弱火で煮込むだけだ」

「ふいー」


 葵に指示しつつ空は監視するというスタンスを取りつつ、特に問題なく料理は進んだ。

 かなり神経を使ったようで、彼女は盛大に溜息をついている。

 微笑ましい姿に小さな笑みを落とし、シンクにあるもう使わない調理器具を洗っていく。


「あ、私も手伝います」

「疲れただろうし、休憩していていいぞ」

「いえ、今日こそは洗わせてください」

「……分かったよ」


 頑固な葵に折れ、洗った食器を彼女へと渡した。

 食器の水を布巾で拭き取った葵は、食器棚へとしまっていく。

 決まった置き場は無いので、置き方は好きにさせた。


「何というか、結構順調ですね」

「問題は味付けだと思ってたからな。まだ下拵したごしらえの段階だし、正直俺が見なくても良かったくらいだ」


 昨日の葵の失敗から察してはいたが、彼女は料理が壊滅的という訳ではない。

 なので野菜や肉を切ったり煮るのは問題ないと思っていた。

 実際、少々危なげな時はあったものの、葵なりに気を付けて食材を処理していたので空の判断は間違っていなかった。

 これなら料理を教えるのも今回だけだろう。

 しかし空の楽観的な考えに反して、葵は勢い良く首を振る。


「そんな事ありません。まだまだよろしくお願いします、ししょー!」

「もしかして、明日以降も続けるつもりか?」

「当然じゃないですか!」

「……明日はこれの残りだろうから、明後日からな」


 当然のように告げられて、頬が引きってしまった。

 逃げるように現実を口にすると、葵は形の良い眉をしかめつつも頷く。


「確かにそうですね。では明後日です!」

「ああ、そうだな……」


 まだ料理は完全に終わっていないものの、今の段階でも空は昨日言われた通り見ていただけだ。

 本当にそれで葵は構わないらしく、可愛らしい顔には不満の色が見えない。

 全く分からない彼女の考えに、溜息をつきながら頷くのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る